四十一食目 数値が出ないなら、鐘を鳴らせ
泥の目が、俺を見た。
その後ろでは、採取人の靴が小屋へ駆けていく。
大将も、二番も、もう戻している。
今ここに立っている俺は、一人だ。
「ガドさん。小屋の鐘、一度だけ鳴らせますか」
「何を呼ぶ」
「こいつの顔を」
ガドが口の端を上げた。
「おう」
*
泥の山は、さっき倒した沼殻蜥蜴より一回り小さい。
小さいといっても、俺を丸ごと呑めそうな口をしている。
目の上に《収支眼》(しゅうしがん)を向けた。
見える部分へ薄い数字が浮く。けれど、草と泥に隠れた脚へ、数字は続かない。
どの脚に力を溜めているのか。
見えない物は、分からなかった。
俺は目を細めるのをやめ、道全体を見た。
右端には、さっき倒した大きい方。左には盛り上がった草の根。その手前の泥だけが、水を含んで光っている。
そこへ足を置けば沈む。
戻るなら、俺が今立っている固い道だ。
「レン!」
小屋の前で、ガドが鉤を振った。
かん、と澄んだ音が湿地へ抜ける。
蜥蜴の目が、小屋へ向いた。
長い頭が持ち上がる。
泥の下から、短い前脚が一本出た。
脚の付け根に、数字が走った。
頭より先に、そっちが増える。
来る。
俺は鐘と蜥蜴を結ぶ線から、右へ外れた。
泥が、腹の下から噴いた。
大きな口が開く。
さっきまで俺のいた場所へ、牙が突き刺さった。
俺の足は、もう固い道を踏んでいた。
小屋の鐘へ向いた首。その横で、前脚が伸び切っている。
飛び込む幅は、二歩。
朝、木剣で届いた距離だった。
脚へ渡す。腰へ回す。最後に、剣を握る腕へ。
余計に大きく振らない。
「《穿牙》(せんが)!」
伸びた脚の後ろへ、刃が入った。
手応えを両腕で受け、すぐ抜く。
跳ね上がった尾が、俺の鼻先よりずっと後ろを通った。
蜥蜴の前脚が折れた。
大きい方の胴へ頭をぶつけ、そのまま泥へ沈む。
俺は剣を構え直した。
目も、脚も、もう動かなかった。
小屋の鐘の余韻が、まだ残っていた。
*
「……終わったのか?」
扉の隙間から、ベックが顔を出した。
「はい。少し待ってください。近づくのは、俺が離れてから」
血のついた剣を道の外へ向け、蜥蜴から距離を取る。
肩へ入っていた力を抜くと、ようやく息が出た。
「呼び直す暇も、要らなかったな」
戻ってきたガドが、俺の足元を見た。
「こっちへ逃げるのを決めてたか」
「さっき二番が沈んだ所は、避けました」
あの時、盾の後ろから見た泥。
回収して、自分の踵で踏んだ感覚も知った。
同じ場所へ、もう一度沈まなくて済んだ。
「それに、朝の稽古が届きました」
言ってから、少し笑ってしまった。
朝は布を打った。
今は、皆の帰り道を開けた。
どちらも、俺が出した足だった。
セラが小屋から出てきた。灰金の髪へ、戸口から射した光が乗る。
「怪我は」
「ありません。ちょっと腹が減りました」
「それは知ってる」
緑の目が、ようやく緩んだ。
*
二頭目を倒したからといって、二頭を肩へ担いで帰れるわけではなかった。
ベックが道の見張りを増やし、町から荷車を呼ぶ人を決める。
俺は彼の隣へしゃがんだ。
「手伝います。皮を残す所、前に教わった線でいいですか」
「腹の薄い所からだ。こいつは鰐より脚の皮が硬い。そこで刃を捻るな」
短い解体用の刃を借りる。
皮を引き、刃を進める。
鰐を処理した時、ベックが押さえた場所を覚えていた。引きすぎれば身が裂ける。刃だけで切ろうとすれば、硬い皮へ引っかかる。
片方の手で、切る線を作った。
「そこまで。骨へ当たったら、こっちへ寝かせろ」
教えられた通りに、薄く刃を返す。
思っていたより、きれいな一枚が剥がれた。
「……あ」
《解体基礎》(かいたいきそ)を習得しました。
浮いた文字の向こうで、ベックが頷いた。
「やっと、自分の手になってきたな」
名前がついても、知らない獣の食べられる場所まで分かるわけじゃない。
こいつの肉についても、俺はベックに訊いた。
「背の身はいい。内臓と泥に触れた所は分ける。汁を混ぜるなよ」
「分かりました」
食べる所と、売る所と、捨てる所。
分け終わった籠を見て、ちょっとだけ誇らしくなった。
討伐の報酬だけでなく、夕飯へ繋がる仕事まで、自分で出来た。
その夕飯が何になるかは、町の料理人に任せよう。
*
「今日は、葉包み」
宿の台所で、ミナがそう言った。
俺は荷物を下ろす途中で止まった。
「何を包むんですか」
「白身魚。買っておいた分。それと、持って帰った肉は明日から使う。今夜は、もう仕込んである方を食べて」
「賛成です」
「まだ中身を言い終わってないけど」
赤茶の髪を結び直しながら、ミナが笑った。
鍋の蓋の向こうで、葉が膨らんでいる。
そこから漏れる湯気が、魚より先に酸っぱい果実の匂いを運んできた。
「大将と二番も、呼んでいいですか。皿運びと片付けまでやります」
「二人分は取ってある。食べる席もね」
俺は、空いた壁際へ手を向けた。
力を外へ出し、輪郭を保つ。
一分の間に、二つの身体が厚みを持った。
丸い頬と、若い頬。
二人が並んで立つと、袖の下の琥珀色が、ゆっくり落ち着いていく。
さっき戦った分も、呼ぶための分も、庫から減った。
けれど、台所に皿を並べる手が四本増えた。
大将へ深皿を渡す。
厚い掌が、縁を下から支えた。
「俺たちの分は最後でいい。ミナさんの席も空けてくれ」
大将が頷き、椅子を一脚、鍋の近くから卓へ寄せた。
*
葉の結び目を解くと、湯気が顔へぶつかった。
白い身へ、刻んだ葱と酸果の皮が乗っている。
匙の先を入れる。
魚が厚いまま、ほろりと割れた。
口へ運べば、まず葱の甘み。その後から、熱い汁が舌へ広がった。果実は酸っぱすぎず、魚の脂をもう一口欲しくする。
パンを浸した。
これは、葉の隅に残った汁まで食べるためのパンだ。
「うま……」
隣から、同じタイミングで息が漏れた。
大将が匙を持ち直す。
二番も、葉の端へパンを寄せていた。
「三人とも、同じ所から食べるんだね」
ユルが面白そうに見ている。
卓の真ん中に、試食用の一切れが残っていた。
俺は大将の皿へ寄せた。
その手前で、大将の皿が俺へ寄ってきた。
二番も、同じ切り身をこっちへ向ける。
三枚の皿が、卓の上で止まった。
「……俺、そんなに遠慮する方だったか?」
「自分の分だと思うと、後回しにするね」
セラの言葉に、返事が遅れた。
ミナが、真ん中へ手を伸ばす。
「はい。じゃ、三つ」
切り身を分け、三枚へ乗せた。
「同じ顔で我慢比べしない。食べるために呼んだんでしょ」
俺は大将を見た。
昔の顔が、ちょっと困ったように笑った。
「……いただきます」
今度は二人とも、すぐ匙を上げた。
*
洗い物が終わると、大将が布巾を絞り、二番が戸口へ椅子を戻した。
食べた力が届くまで、皆で卓を囲む。
ガドは明日の修理を、ユルは帰り道に直した印を話した。ミナは自分の魚を一口食べ、次は葉をもう少し柔らかくしようと言った。
二人を戻す時には、外の空がすっかり暗くなっていた。
皿の温かさと、パンへ染みた汁の味が重なる。
腹は一つのままなのに、うまいと思った回数が増えた。
これは、かなり得な能力だと思う。
寝る前、宿の主人から折った紙を渡された。
ギルドを通して、騎士から稽古の誘いが来たのだという。
「四日後の朝。町の北の練習場、だそうだ」
湿地の話を聞いたらしい。
剣と盾を使う分身を、見せてほしいとある。
俺は、今日蜥蜴へ踏み込んだ足を見た。
前より届くようになった。
教われば、もっと届くかもしれない。
「お願いします、と伝えてください」
紙を畳むと、ミナが隣から覗いた。
「その日は、朝ご飯、多め?」
「はい」
俺は迷わず頷いた。
「練習の後も、お願いします」
「そこまで聞いてない」
笑い声を聞きながら、剣を寝台の脇へ立てた。
四日後が、楽しみだった。




