四十食目 昔の俺が、帰りの力をくれた
帰り道に、泥の山が出来ていた。
朝には、なかった。
「そこで、止まってください」
先頭の採取人の足が止まる。
泥の下で、目が開いた。
*
大将の荷運びから三日、俺たちは湿地の道を直していた。
朝は木剣と荷重。昼は仕事。夕方、回収した手つきを今の身体へ通してから、飯を食べる。
二番と同じ型を繰り返すだけでも、前よりずっと早く、足が揃う。
その上で、一人には重い物を、もう一人には軽い木剣を渡すと、同じ突きの違う所が分かった。
二日前には、三人目が出来た。
昨日は、四人目も立った。
どちらも若い俺だ。青い布の二番に、赤い三番、白い四番。庭に並んだ同じ顔を見て、ユルが数え直した。
「レンさんが、五人」
「昼飯も、そこまで増やせますか」
「先に稼いできて」
ミナの返事は早かった。
今朝、木剣を構えると、ガドが昨日より遠くへ布を下げた。
足を出す。
木剣が真ん中を打ち、一息で戻る。
鰐の脇へ入った時より、速い。もう一歩先まで行けそうな力が、腰に残った。
最大追加消費 240 kcal/分
俺は息を吐き、思わず笑った。
「ずいぶん、伸びたな」
ガドの言葉へ頷く。百回の稽古を、一人で終える日を待たなくていい。その百回を持ち帰った俺は、次の百回から始められる。
昼前の仕事も、昨日より早く終わった。
それなのに帰る道で、泥の山が待っていた。
*
泥の山は、短い脚で立ち上がった。
平たい背へ、乾いた泥と草が張り付いている。頭を上げるまで、道の盛り上がりにしか見えなかった。
「沼殻蜥蜴だ!」
ベックが声を飛ばす。
右は水路、左は崩れた斜面。先頭の二人は、もう蜥蜴の鼻先にいる。
「大将、盾! 二番は俺と。三番、四番、人を後ろへ!」
道具の籠が地面へ並んだ。
ガドが補修した盾を渡す。大将が受け、厚い背中を二人と蜥蜴の間へ差し入れた。
三番と四番は、落ちた籠を退けて道を空ける。
俺は二番と左右へ分かれながら、《余熱庫》(よねつこ)を開いた。
朝の稽古から、かなり使った。
けれど、もう一つ使える取り置きがある。
大将は早番の仕事を終え、俺たちより二時間以上前に食べていた。その分は、もう力へ変わっている。
俺が目を向けると、大将が空いた掌を差し出した。
食卓で、隣へ皿を寄せるような手だった。
「帰りの荷運びは終わりだ。今は、こっちへ回してくれ」
男が頷く。
先に食べた飯を、今の俺たちが使える。新しく増やしたのではなく、ちゃんと食べて残していた力だ。
その分まで、四人へ渡した。
*
蜥蜴の頭が沈む。
次の瞬間、泥が弾けた。
「流せ!」
大将の両腕へ、琥珀の光が走る。
盾が鳴った。斜めの板を長い口が滑り、牙が俺の右を通り抜ける。
セラが採取人を呼び、三番が一人の肘を支える。四番はもう一人の籠を抱え、二人とも盾の後ろへ引き込んだ。
「全員、戻った!」
よし。
二番の剣が、蜥蜴の目の前を走った。
刃は鱗を叩かず、その手前で引く。頭が二番を追い、尾が右の水路の杭へぶつかった。
胴が半歩遅れる。
今なら、と足へ力を渡しかけた。
その前に、二番の踵が泥へ沈んだ。
「退け!」
剣が引かれた所を、尾が薙いだ。
道端の横木が折れ、湿った破片が水路へ飛ぶ。俺は踏み込むのをやめ、二番の肩を引いた。蜥蜴の頭が、その空いた側へ回る。
大将が盾を向け直す。
牙が板を擦り、今度は低い位置へ噛みついた。
「押し返さなくていい。頭を道の外へ!」
厚い脚が、泥を踏んだ。
盾の内側へ丸い腹が寄る。足首から腰へ走った光が、柄を握る両腕を照らす。
板の角度が変わり、長い口が水路の側へずれた。
その間に、三番と四番が採取人を小屋へ運ぶ。セラも後ろへ下がり、帰ってきた二人だけが、道端の籠をもう一度退けた。
守る人は、もう後ろだ。
今度は、俺たちが動く幅を作れる。
「二番、頭を右へ。俺は、まだ入らない」
剣が目の前を横切る。
蜥蜴は追わず、腹を低くして盾へ押し寄せた。さっきと同じ隙を、もう一度見せてはくれないらしい。
大将の靴が、少し下がる。
俺は三番へ手を振り、道の固い側にある短い横木を渡させた。四番が籠を引き、戻る道へ転がった金具を退ける。
大将が支えている間に、三人の手で、次に動ける場所が出来た。
鰐の時は、受ける手と剣だけだった。
今日は、そこへ道を作る手がある。
蜥蜴が一度頭を引いた。
次の突進で盾を倒すつもりだ。
俺は泥を見た。二番の踵が沈んだ所を避け、横木の先から先へ足を運ぶ。
「左の二歩先、固いです!」
ユルの声へ足を置いた。
俺はもう、そこから入れる。
ガドの長柄の鉤が、道端の横木を引いた。
右前脚のすぐ前へ、一本。
蜥蜴が跨ごうと頭を上げる。
「大将、下から!」
盾が顎の下へ入った。
足首から腰、両腕へ、光が駆け上がる。大将が立ち上がるように押し、泥の鎧を載せた頭を持ち上げた。
二番は、もう刃を引いている。
空いた一本の道へ、俺が踏み込んだ。
大将の腕の光が細くなる。その力を脚へ、腰へ、最後に剣を握る腕へ。
「――《穿牙》(せんが)!」
下顎の柔らかい縁へ、剣が通った。
両腕へ、確かな手応えが返る。
抜いて退く。
牙が空を噛み、前脚から力が抜けた。
大将が盾を傾ける。重い胴が道端へ滑り、泥を跳ね上げて倒れた。
道の真ん中が、開いた。
「八分です!」
砂時計を持つユルの声に、俺は大きく息を吐いた。
逃がす手も、引きつける剣も、決める力も足りた。
人数が増えた分だけ、守れる場所まで増えていた。
*
大将が盾を下ろす。
俺は空いた掌へ、自分の掌を打ち合わせた。
ぱん、と乾いた音がした。
「助かった」
誰かが聞いていても、気にならなかった。
二番も剣を下ろし、三番と四番が荷を持って戻る。
「全員へ言うと、手が足りませんね」
「足りてるだろ。五人もいるんだから」
ガドに笑われ、俺も笑った。
「飯の方は、五人分要ります」
「そっちは、さっきも聞いた」
*
ベックが討伐を告げ、人を近くの休憩小屋へ戻した。
蜥蜴を道端へ寄せ、見張りを頼む。大将と二番に道具を運んでもらい、三番と四番はここで戻した。
ミナは町で仕込みをしている。
持たせてくれた包みには、鰐の保存肉とパンが多めに入っていた。人数が増えたから、遅れた時も食べられる物を足したのだという。
小鍋で肉を温めると、脂が薄く広がり、塩漬けの香りが湯気へ戻った。
大将にも二番にも、椀を一つずつ。
パンを浸せば、硬い端から柔らかくなった。鰐の脂は量の割に力になると、ベックが教えてくれた部位だ。
朝は稽古、昼は仕事と討伐。
その合間に、皆とこうして食べられる。
分身を増やしたら忙しくなると思っていたが、増えた手で早く終わらせることも出来るようになってきた。
「次は何人にするんだ」
ガドが訊いた。
「今の四人を、もっと使えるようにしてから。八人いたら、狩りと仕込みも分けられそうです」
「先に鍋を相談してくれ」
俺は大きく頷いた。
食事が力になるまで休み、戻った腕の疲れも落ち着かせる。帰り支度の前に二人も回収すると、さっきとは違う場所から見た戦いが俺の中へ重なった。
盾の向こうの牙。剣を引いた先を駆ける自分。
明日の稽古で、もう一つ直せる所まで分かった。
*
午後の遅い光の中、荷を小屋へ置いて帰り道を見に出た。
倒した蜥蜴は、右端にある。
俺は朝の道と比べ、左の草が根ごと持ち上がっている所へ目を留めた。
「そっちも、近づかないで」
その泥が動いた。
下から、小さい目が開く。
ガドが鉤を取り、俺の隣へ来た。
俺は剣を抜き、皆へ声を掛ける。
「小屋へ。今度は、出てくる場所が分かってます」




