三十九食目 見ていない場所の、俺の仕事
「助けてくれて、ありがとう」
見覚えのない袋を抱えた女の人に、そう言われた。
俺は両手に持っていた昼飯の包みを見た。
次に、彼女の隣へ立つ大将を見た。
俺が渡した籠とは別に、小さい袋を一つ持っている。
「ええと。少しだけ、待ってもらってもいいですか」
礼を言われるようなことがあったらしい。
それが何だったかを、俺はまだ知らなかった。
*
短い作業を任せ始めてから三日後、俺たちは湿地の入口に来ていた。
今日はセラが薬草を採り、ユルが道を測る。俺と大将は摘んだ物を待ち場所へ運び、二番には俺の隣で木剣の突きをさせていた。仕事の合間にも、一本ずつ増やせる。
道は短い。
固い岸から葦の切れ目まで、二十歩余り。俺が立てば、端まで見える。
昨日のうちにユルと歩き、深い水へ入らず戻れる所へ紐の印を置いた。
「この中だけ。籠を受け取ったら、ここへ戻る。荷が傾いたら支えるけど、水へは入らない」
俺は一つずつ、実物を示した。
セラから渡される薬草は、包みごと受け取る。種類を大将に判定させるのではない。
休む場所も、弁当を食べる時刻も決めた。
大将は朝飯を先に済ませている。俺は道具の受け取りへ寄ったため、まだパンを半分しか食べていなかった。
荷運びを一往復、見届ける。
大将は土の固い所を選び、籠を置いて戻った。
二往復目も同じだった。
その間に俺はベックの所へ、今日使える水路を訊きに行けた。
*
待ち場所でベックと話している間、俺は大将の方をずっと見ていたわけではない。
共有の《余熱庫》(よねつこ)では、向こうへ予約した燃料が少しずつ減っている。働いていることは分かる。
けれど、何を見て、どちらへ手を伸ばしたかまでは来ない。
昼飯の包みへ手を掛けた時、葦が左右へ割れた。
灰色の小獣が二匹。籠の干し肉へ、真っすぐ飛んでくる。
「二番、右!」
木剣が一匹を横へ払った。俺は腰の剣を抜き、もう一匹の着く所へ足を入れる。
《収支眼》(しゅうしがん)に、踏み切る後脚の流れが見えた。
跳ぶ直前へ、突く。
獣が泥へ落ちる。二番が払った方も、立ち上がる前に俺が仕留めた。
ユルが、遅れて息を呑む。
「泥跳鼬です。今の、一度も止まらなかった」
「昼飯を取られるのは、困るので」
剣を拭いて納める。向こうの俺は、もう木剣を元の構えへ戻していた。
昨日までの稽古が、考えるより先に身体を動かした。
二番を戻し、今度こそ包みを開いた頃、大将が帰ってきた。
隣の採取人も、一緒だった。
それが、最初の礼へつながった。
女の人はノエと名乗った。
「ユルから、この人はあなたの分身だって聞いたの。落ちた荷を、受けてくれたから」
彼女は大将へ向き直る。
「私にも、ありがとうって言わせてね」
大将は頷き、袋を差し出した。
俺が誰かへ荷を返す時と、同じ持ち方だった。
「籠の肩紐が、下の枝へ引っ掛かってね。外そうとして傾いたの」
ノエは自分の膝を示した。泥が付いているが、傷はない。
「この人が籠を支えてくれて、私も岸へ座れた。下へ落とした袋まで、拾ってくれたわ」
説明は分かった。
ただ、俺はその瞬間を、まだ見ていない。
ユルが待ち場所へ戻り、自分の紙を出した。
「僕も、後から見つけたんです。先にセラさんを呼んで、怪我がないか確かめてもらいました」
大将は袋をノエへ渡し、空いた両手を、いつものように腹の前へ戻した。右膝にだけ、泥が付いている。
俺の知らない所で、この手が誰かを助けた。
礼を受け取るのが、少し遅れた。
*
荷を下ろし、ノエに姿が消えると断ってから、大将を戻した。
疲れと一緒に、大将が見た泥の岸の記憶が浮かんだ。
俺のいる待ち場所ではない。
さっき、向こうの俺が歩いていた場所だ。
記憶の中で、籠の端がぐらりと傾く。
大将の手が、下へ入る。荷が傾いたら支える。今朝、俺が見せた動きだった。
肩紐を引くと人まで倒れると分かり、籠を腿へ一度置く。ノエが枝から紐を外すまで、そのまま待つ。
彼女が座れる石を指し、空いた方の手を出す。
ああ、と思った。
重い物を身体へ寄せる動き。人が転びそうな時に出す手。
俺の知っている何気ない癖が、今日は俺のいない所へ届いた。
袋を拾う前には、ノエがここ、と指している。大将は岸から腕の届く所へ膝をつき、濡れた紐を引いた。
記憶の中の水は、冷たかった。袋が沈む寸前、伸ばした指に紐が触れる。引き上げると水面の輪が広がり、ノエがほっと息を吐いた。
俺は今日、あそこへ膝をついていない。なのに、草の匂いと、水を切って重くなった袋の手応えまで思い出せた。
あの人を支えた午後が、借り物の話ではなく、俺の経験としてここにある。
俺は自分の掌を開いた。
指の間に、湿った紐の感触が残っている。
「荷が傾いた時、籠を腿へ載せたんですね」
俺が言うと、ノエが目を丸くした。
「今ので、分かったの?」
「はい。分身が見ていた記憶が、今、俺に戻りました」
さっきまで俺がベックと話していた間に、この小さな救助は終わっていた。
同じ午後が、俺の中で二つに広がった。
*
ノエが小さな包みを一つくれた。
乾かした木の実だという。
「お礼。あなたにも、あの人にも」
俺は受け取り、改めて頭を下げた。
「無事で、よかったです。大将にも伝えます」
次に呼んだら、この木の実を一緒に食べよう。
ノエの礼も、今度は隣で聞かせたい。
俺は自分の手で、帰りの籠をまとめた。
《荷扱い》(にあつかい)で覚えた置き方へ、新しい一回が加わっている。傾いた物を支える時も、先に自分の膝を置ける場所を探した。
ノエの籠を持つ時、俺は一度だけ、手の位置を直した。
返ってきた感覚では、もう少し肘が外へある。
今の自分の幅へ寄せ、足もとを確かめると、荷は揺れずに持てた。
「同じ人でも、持ち方は直すのね」
ノエが言った。
「身体が違う所は、こっちで覚え直します」
俺は籠を台へ置いた。
籠が、揺れずに台へ収まった。
掃除を覚えた時と同じだ。今の手へ合わせれば、向こうの経験が使える。
次は少し遠くの採取も、一緒に出来るだろうか。俺が剣を習う間に、分身が荷を運んで帰ってくる。
帰りを待つ楽しみが、もう一つ増えそうだった。
*
午後、持ち帰った草をセラが乾かす横で、俺は遅い昼飯を食べた。
肉入りの麦餅に木の実を一つ載せる。塩気のある肉の後で、香ばしい実が小さく砕けた。
待っていたミナが、残りを見て目を輝かせる。
「これ、潰して焼き汁へ入れたら、おいしそう」
「俺の分も、少し残してください」
「次の肉に掛けて返す」
その返し方なら、歓迎だった。
俺は帳面へ、帰る時刻の欄を足した。
仕事が終わった時。食事の後。無理のない区切り。
遠くへ任せられるようになっても、戻して受け取る時間を、最初から予定へ入れておきたい。
ベックから明日の杭仕事を頼まれ、使う道具も横へ書く。
明日は杭を立てる。なら、今日は運んだ草の残りを片付けておこう。
俺は帳面を閉じ、干しかけた草の束を、風の通る方へ掛け替えた。
明日は俺も、大将も、もう少し上手く働けるだろう。
帰りには、二人分の飯を忘れずに買っておこうと思った。




