四食目 河港町の粥は銅三枚
町の門をくぐって、三歩。
俺の足は、もう焼けた魚の方へ曲がっていた。
違う。先に宿だ。
腰の革袋には銅貨百四十枚。村で働いた賃と、獲物の皮の取り分だった。寝床を押さえ、帰る銭を残す。それから食う。
そこまでは、ちゃんと考えている。
向かいで揚げ物が上がった音を、聞かなかったことにするだけだ。
「止まれ、止まれって!」
坂の上で、馬が嘶いた。
薪を積んだ荷車が傾いている。片輪が欠けた敷石の溝へ落ち、荷台の上で太い薪が動いた。下には、買い物籠を抱えた人がいる。
「坂を空けてください!」
声を上げ、道端の平たい石を掴んだ。
御者は手綱を握ったまま、後ろへ回れない。俺は車輪と溝を見て、彼に石を示した。
「引くのを待って。車輪の前へこれを噛ませれば、溝から上がれます」
「支えられるか?」
「横揺れだけなら。馬を、そっちの柱へ」
荷車の底へ潜らず、低い側の梁へ両手を添えた。
《消費配分》(しょうひはいぶん)。脚と胴へ2 kcal/分ずつ、腕へ1 kcal/分。
踵を敷石へ据える。掌から来た重みを、足まで通した。
薪が、一本転がる。
俺は肩を寄せ、揺れを受けた。
「今、石を!」
男が車輪の前へ平石を斜めに入れ、すぐ離れる。
手綱を取り直し、馬を一歩だけ進ませた。
車輪が石を踏み、溝の縁を越える。
荷台が、真っすぐになった。
俺は薪の揺れが収まってから手を離し、力を切った。二分ほどなのに、息は上がっている。
坂の下から、ほっとした声がした。
「危うく、薪屋から通せんぼ屋になる所だった。ダンだ」
「レンです。縄、もう一本締めた方がよさそうですね」
「分かってる。先に、こいつを受け取れ」
掌へ銅貨四枚が落ちた。
俺が顔を上げると、ダンは荷を留め直しながら笑う。
「薪を撒いて道を塞ぐより安い。何か食ってけ」
「炒り麦の粥なら、どこがうまいですか」
「渡し場のマルタ。一杯三枚」
今日、最初に稼いだ分で、昼飯が食える。
知らない町が、急に少し歩きやすくなった。
*
渡し場食堂は、昼の客で賑わっていた。
開け放した戸の脇に、舟の櫂が立てかけてある。壁沿いの大鍋から、炒った穀物の香りが流れてきた。
「一人なら、そこ空いてるよ」
木の器を重ねた少年が、窓際を顎で示した。
俺は腰を下ろし、さっき貰った銅貨を三枚出した。
「粥を一杯」
「パンは?」
迷った。
「まず、粥を食べてから考える」
「マルタさん、粥一つ、そのうちパンの注文も入りそうな感じ」
「テオ。注文だけ伝えな」
大鍋の向こうから、よく通る声がした。
店主は杓子を鍋へ沈め、深い器へ粥を注いだ。白いものの混じる髪を後ろでまとめ、次の客の代金を受け取る手も休めない。背筋がすっと伸び、目尻の皺まできりりとした、美人の女将だった。
粥は、思っていたより濃かった。
豆と麦が溶け合い、匙を入れた跡がゆっくり埋まっていく。薄い油に、刻んだ緑の葉が浮いていた。
ひと口、掬う。
炒り麦の香りが、湯気と一緒に鼻へ届いた。
豆は柔らかく、麦にはぷつりとした歯触りが残っている。飲み込むころに、細かく刻まれた干肉の塩気が追いかけてきた。
もうひと口を、少し深い所から取る。
底の方は、肉の味が濃い。
同じ一杯なのに、匙を入れる場所で違うのが嬉しくて、次を掬うのをやめられなかった。
顔を上げると、マルタが空の器を見ていた。
「考えはまとまったかい」
「もう一杯、お願いします」
銅貨を出すと、今度は少し端の焦げた麦が入った。
村で聞いてから、ずっと食べたかったものだ。
あのとき袋へ入れてもらった漬け肉も、まだ残っている。俺は包みへ手をやりかけ、隣の卓へ運ばれた皿を見て止まった。
小さな魚が、三尾並んでいた。
「……あれは」
「川白魚の揚げ物。六枚」
「それもください」
「パンを考えてたんじゃなかったのかい」
「一期一会を大切にするタイプなんです」
マルタは鼻で笑って、奥へ皿を取りにいった。
魚の尻尾は、噛むとぱりりと砕けた。細い骨まで軽く、腹の身だけがふわっと崩れる。
表へ振った酸っぱい粉が、後に残る脂をさっぱりさせた。
魚を食べ、粥を食べる。
いい組合せを見つけてしまった。
三杯目を頼み終えたころ、マルタが鍋の底を見せた。
「次が煮えるのは、夕方だよ」
「では、夕方にまた」
「あっさり決まるねえ」
テオが隣で、自分の昼飯の器を抱えて笑っていた。
腹はまだ苦しくならない。
けれど、今は十分、機嫌がよかった。
俺は空になった器を重ね、受け取ってもらってから店を出た。
*
宿は食堂の裏通り。一泊銅八枚だった。
寝台と水差しと棚があるだけの部屋でも、窓を開ければ川が見える。
俺は袋を下ろし、財布から寝床と帰り道の分を分けた。
残った銭で、何日食べられるか。
昼の食べ方を思い返すと、なかなか手強い計算だった。
紙を出し、宿と食堂と河岸の印を付ける。
知らない道は、覚えればいい。仕事も、今日みたいに見つけられる。
手が止まった頃には、昼の魚をもう一度食べたくなっていた。
俺は少し眠り、日の傾く頃に起きた。食べた分は時間をかけて《余熱庫》(よねつこ)へ入ってきていた。
靴を履く。明日の仕事を聞きに行こう。
ついでに、あの酸っぱい粉の正体も。
*
昼とは違い、店の中には二組しか客がいなかった。
マルタが鍋を混ぜ、テオが匙を布で拭いている。
「さっきの粉、何ですか。魚へかかっていた」
「酸果を乾かした粉だよ。川向こうから入る」
「あれ、乾かしても使えるんだ」
村で肉を漬けたと話すと、マルタは干肉にも合うと言った。
俺はエナに持たされた、もう一つの包みを出した。
「よかったら、味を見てもらえますか。村で教わった方です」
マルタは漬け肉を受け取り、あとで焼いてみようと台所へ置いた。
俺は紙へ書き足そうとした。手元を見たテオが、首を傾げる。
「これ、どこにいる猪?」
「鍋です。こっちは宿」
「猪の隣で寝るの?」
「鍋の近くなら、だいたいそうなる」
言い返してから、何の説明にもなっていないことに気づいた。
テオが笑う。マルタも鍋の方を向いたまま、肩を揺らしていた。
「仕事を探すなら、河岸か広場。森で獲った物ならギルドだね」
俺が訊く前に、マルタが教えてくれた。
「薬草採りの手伝いもあるよ。診療所のセラに付いていく仕事」
「どこで聞けますか」
「明日の朝、ギルドへ行ってごらん。あそこに貼ってあるのと同じ依頼が出てる」
壁へ寄り、掲示の文字を追った。
薬草の名は、まだ読めない。
ただ、六十という数字は読めた。
銅六十枚。
俺は食堂の鍋を振り返り、もう一度、掲示を見た。
「変な換算をしてるね」
「食事以外の分も考えてます」
「じゃあ、帰り道と寝床も忘れないこと」
マルタは杓子を置き、器を取った。
「煮えたよ。今日はこれで終わりにするからね」
俺は一杯分の硬貨を出し、椅子を引いた。
明日の朝に行く所が、決まった。
今は、煮上がったばかりの粥を食べる番だった。




