三食目 五キロカロリーで、先を取れ
兎の額に、角があった。
朝露の草を噛むたび、細い角も上下に揺れる。
「角兎だ」
「どう料理するんですか」
「まず獲るんだ」
ハルドの声は低い。俺も口を閉じ、倒木の向こうを見た。
輪罠が一つ。俺の役目は右へ回り、そちらへ追うことだ。
《収支眼》(しゅうしがん)へ1 kcal/分を回すと、草から出た後脚へ光が寄った。
跳ぶ。
先回りしようとして、《消費配分》(しょうひはいぶん)を脚へ切り替えた。
濡れた葉が滑った。
走り直すより先に、片手で木の根を掴む。もう片方の枝を低く払うと、角兎が跳び込もうとした隙間が塞がった。
兎は向きを変え、ハルドの枝に追われて輪へ入る。
俺は腹を倒木に載せたまま、締まった罠を見た。
「……作戦通りですね」
「冗談を言う前に口の葉を吐きな」
俺は土を払い、獲物の袋を開けた。
膝は泥だらけだが、逃げ道を一つ塞ぐ役は果たせた。
次は、あの脚が跳ぶ前に枝を置く。追いつく速さより、先に待つ場所を選べばいい。
*
夕飯の角兎は、いい匂いがした。
脂を熱した鍋で、塩を振った肉へ焼き目をつける。帰ってからも何度か思い出していた兎の目が、皿を前にするとまた浮かんだ。
いただきます、と小さく言って食べた。
硬かった。
噛んでも、噛んでも、口の中に同じ一片がいる。
エナが俺の皿を見た。
「ずっと静かだけど、嫌いだった?」
「話せる状態にならなくて」
ようやく飲み込むと、ハルドが笑いを堪えきれず顔を背けた。
臭いは強いが、噛むほど肉の味は出た。何とかしたい味だった。
エナは残した生肉を俎板へ載せ、表面を指でなぞった。
「ここに筋が走ってるでしょう。それを短くする向きに切る。兎は特に硬いから、薄くね」
「小さくしたつもりだったんですけど」
「四角くするのと、噛み切れるようにするのは違うよ」
教わった向きへ包丁を入れると、刃先に残る感触まで違った。
肉を酸果の汁と塩へ漬け、夜の間、涼しい所へ置く。
翌日は弱い火で、根菜と一緒に煮た。
煮えるまでの間、鍋を三度覗いて、三度ともエナに蓋を戻された。
「匂いだけなら、もう出来てるんですが」
「じゃあ、匂いでパンを食べて待ってな」
待った甲斐はあった。
匙で押すと、肉の繊維がほぐれた。酸味のあとに甘い脂が残り、汁を吸った根菜までうまい。
硬い肉を持て余した昨日が惜しくなり、次の獲物のことを考えた。
今度は、最初からこっちにしよう。
*
獲って、料理して、食べる。
その間に、やることは思っていたより多かった。
森ではハルドが罠の位置を選び、俺は獣が通った順を紙へ残した。帰りの道に印を揃えると、同じ斜面を上り直さずに済む。
家ではエナに文字を教わった。
麦。豆。塩。
横に鍋の絵を描いたら、エナが紙を傾けた。
「この子は、脚が何本あるの」
「取っ手です」
その紙は、間違えやすい箱の横へ貼られた。
読めるようになると仕事が早い。仕事が早く済めば、煮込みを食べたあとに昼寝も出来た。
腕を使った翌日は、字を覚える。歩いた翌日は、座って肉を切る。
同じ所を酷使しないよう、やることを入れ替えた。前の職場でも、人が疲れてから急かすより、順番を変えた方が早い日があった。
食べ、働き、休む。
三週間ほど続けた朝、いつもの強化を使っても、まだ脚へ回せる余裕があった。
最大追加消費は3 kcal/分。
朝飯の後、ハルドと罠を回った。斜面で縄を押さえながら、空いた手で袋を開けられる。翌朝も、獲物を逃がさず同じ順で動けた。
それで午前の猟を早く切り上げた。
欲張らなかった日の方が、翌日もよく歩けた。
ひと月半が近づく頃、5 kcal/分まで通せるようになった。
新しい重さを短く持ち、離し、食べて眠る。力を止めても手足が震えないことを確かめてから、森へ出た。
*
村へ来て、もうすぐ二か月。
角兎が倒木の前で草を食べていた。
今度は、ハルドに俺の案を聞いてもらった。
「右へ追う前に、一度だけ左を空けます」
「罠は、右だぞ」
「左へ跳ぶために、こっちへ体を向けると思うんです。その後に塞ぎます」
前の二度の猟で、後脚の向きと、跳び出す方向を見た。
光だけで答えが出たのではない。俺が外して、ハルドが獲った時に、覚えた動きだ。
木の根を避けて立つ。
《収支眼》の流れが後脚へ寄った。
まだ追わない。
兎が左へ鼻先を向けた瞬間、枝を鳴らした。
視認を切り、脚と胴へ力を渡す。右の足を置き、横へ一歩。
兎は、残した逃げ道へ跳んだ。
輪が締まる。
俺は追いつく前に止まり、角の届かない所で縄を押さえた。
「取ったか」
「はい」
ハルドの出番を待たずに、獲物を確保できた。
仕留め方と解体は、まだ手を借りた。そこを急いで台無しにしたくはなかった。
光がゆっくり消えた獲物へ、小さく頭を下げる。昨日まで走っていたものを、今夜は俺が食べる。
ハルドが、刃を入れる場所を示して待っていた。
俺は教わった手順を確かめ、傷めずに皮を外した。食べたいと思った分は、ちゃんと使いたい。
帰り道、ハルドが袋を指した。
「今日は、お前の分だ」
背中が、さっきより重くなった気がした。
嫌な重さではなかった。
「川下のレドって、何がうまいんですか」
「豆と炒り麦の粥。川魚。ギルドへ獲物を持ち込めば、食う銭にもなる」
「行ってみたいです」
返事は、すぐに出た。
*
出立の朝、庭で最後に動きを確かめた。
《消費配分》で足と胴と腕を支え、残る分を思考へ。合計5 kcal/分。
身を沈めてから向きを変え、器を石へ置く。
力を切っても、手は置いた場所からずれなかった。
攻撃力 12
防御力 12
速度 11
思考力 18
初めて見た時の攻撃力は八だった。
それ以上に、今はこの手で何をすればいいか、分かる。
ハルドが予備の罠紐を、俺の掌へ置いた。
「帰ってくる時は、土産話も頼むぞ」
エナは酸果と漬け肉、薄パンの包みを持ってきた。
「こっちは昼。こっちは町で世話になる人へ。間違えないでね」
結び方の違う包みを、俺は袋の別々の所へ入れた。
名乗りには、二人の家名のアスタを借りることになった。紙へ書いてみせると、エナが最後の一文字だけ直してくれた。
「覚えた料理は、手紙で教えて」
「帰ったら作ります」
「ああ、それじゃ、材料も少し持ってきてね」
「だったら、鍋の絵は描かなくて済むね」
ハルドが笑った。俺も笑って、戸口を離れた。
戸口で振り返ると、二人とも、まだそこにいた。
「うまい物があったら、食べに戻ってきます」
「それなら、うちの飯も忘れるなよ」
ハルドの返事に、俺は笑った。
小さな力でも、使う前より出来ることは増えた。知らない町でも、まず一つ、やってみよう。
川下へ続く道の向こうから、まだ知らない昼飯の匂いがする気がした。




