三十七食目 大将、そこの鍋を頼む
「大将、そこの鍋、お願い」
俺と分身が、同時に振り向いた。
ミナは一度、二人を見比べた。
「今、鍋を持ってる方」
隣の俺が、自分の手もとを見た。
俺も自分の両手を見る。
こっちは空いていた。
「分かりやすいですね、それ」
「だって、二人ともレンだと、注文する方が困るもの」
彼女は笑い、台の空いた所へ布を敷いた。
分身が鍋を置く。
大将。
口の中で一度呼んでみると、思ったより、すっと収まった。
*
鰐の食事から四日後、サルナのパン屋の厨房。
俺たちは、女将へ出す昼の肉包みと、ミナの屋台で売る薄焼きを仕込んでいた。
この四日は、朝も夕方も二人を使った。大将は包丁、二番は木剣。俺は重い薪を抱えて足を運び、戻した後には向こうの手つきも自分で使う。
同じ突きを二人が五十回ずつやれば、百回分が戻る。最後の一回まで覚えているのが、もう嬉しかった。
食費の欄は大きくなったが、仕事は早く終わる。余った時間を稽古へ回しても、夕飯には皆と座れた。
仕入れる分と自分たちで食べる分は、別に書く。
ミナは俺が書いた帳面を覗き、頷いた。
「これなら、今日どこまで売ればいいか分かる」
彼女の屋台は、今もこの店へ預けてある。昼の短い間だけ前庭の営業場所を借り、パンと一緒に買う人へ出すことになった。
売り物の量を増やしすぎず、決めた分から始める。
その片付けまで済めば、俺たちの昼飯だった。
「卵、二つ残ってる。レン、何か作る?」
ミナに訊かれ、俺はすぐ頷いた。
「少し、甘くしてもいいですか」
「甘い卵?」
彼女は面白そうに、砂糖の小壺を出してくれた。
*
俺は卵へ、塩をほんの少しと、砂糖を入れた。
鍋ではなく、浅い小さな焼き鍋を借りる。角張ってはいないが、薄く焼いて巻くくらいなら出来そうだった。
分身が横で、空いた皿を拭いている。
俺は一度、卵の器を彼へ渡した。
「俺がやるように、薄く流して」
火はミナに見てもらい、俺は傍で手順を伝えた。
分身は器を傾け、卵を薄く広げた。
端が固まる。
指へ巻いた布で柄を持ち、匙の背で奥の端を寄せた。
その動きに、胸が少し詰まった。
俺は昔、休日の遅い朝に、よくこれを作った。
薄く焼いた一枚目が、いつも少し破れる。端を内側へ寄せてしまえば、巻いた後には分からない。
その誤魔化し方まで、同じだった。
「巻くの、慣れてるね」
ミナが感心したように言う。
「好きな料理だったので」
そこまでなら、普通に言えた。
もう一枚を流す。巻いた卵の下へ少し入れ、また手前へ返す。
分身の手首が、迷わず柄を引いた。
袖口の光より、卵を返した時の匂いの方が、ずっと俺の胸へ来た。昔の台所でも、この薄い焼き目を待っていた。
俺は横で布を持ち、卵の端が鍋へ張り付いていないか見る。
「もう少しだけ、手前へ」
言うと、焼き鍋の傾きが変わった。
卵の薄い端が、綺麗に内側へ収まった。俺が焦げ目を気にしていた頃には、もう次を流す場所が空いている。
そうだ。この手は、昔からこの料理を知っていた。
ミナが、余った卵液の器を差し出す。
「最後、少し残るよ」
「それも薄く焼いて食べましょう」
俺が答えると、大将も同じ器へ目を向けた。
「食べる話には、二人とも詳しいんだね」
ミナに笑われたが、焦がさず取れた薄い端は、ちゃんと皿へ残した。
焼き鍋から皿へ出た卵は、少し扁平だった。黄色い表面の端だけに、薄く焼き色がある。
俺は匙を入れずに眺めた。
忘れていたわけではない。
けれど、こっちへ来てから作るのは、初めてだった。
*
先にミナと女将の分を切った。
俺と分身には、両端を一つずつ。
食べるよう伝えると、分身も同じタイミングで持ち上げる。今度は笑って、俺の方が一拍待った。
卵は、ふんわりしていた。
少し甘い。塩がその後へ来る。
噛むと重なった所がほどけ、熱い汁がほんの少し出た。砂糖も卵も前の世界とは違うはずなのに、腹の奥へ落ちていく感じは、妙に懐かしかった。
向こうの俺も、端の焼けた所を最後に噛んでいた。
俺は、その顔から目を逸らさなかった。
「好きな味です」
言ってから、誰へ言ったのか、自分でも少し迷った。
ミナは自分の一切れを食べ、指を一本立てる。
「これ、肉の横に少し添えたい」
「全部、売る方へ?」
「今日の分は食べよう。店で出す時には、また焼けばいいよ」
俺と分身が、また同時に皿へ手を伸ばしかけた。
ミナに見られたので、残りは二枚の皿へ分けた。
*
午後は肉の下拵え(したごしらえ)をした。
硬い筋を短く切る向き。刃を押しつけすぎず、引いて離す場所。
エナに初めて教わってから、何度もやってきたことだ。ミナには、筋を残していい肉と、外す肉の違いを習った。
今日は二人の台を近づけ、同じ厚さの肉を分けた。
分身の包丁は、俺の手と少し角度が違う。
俺が切った一片を見本に置き、向こうの手が切ったものと並べる。上手く揃う方を確かめてから、残りを任せた。
端の食べられる肉は、小皿へ。
葉の硬い芯は、乾かして火へくべる分へ。
分身は俺が言う前に、今しがた示した二つの置き場所へ分けた。こんなふうに片付けるのも、前の俺がしていたことだった。
庭では二番が、俺の声に合わせて木剣を引いた。さっきより迷いがない。
卵を食べてから二時間以上が過ぎた。片付けと休憩を挟み、二番の最後の十本まで見届けてから、二人を戻した。自分の手でも、同じ厚さへ切ってみる。
日を分けて続けた手順が揃った時、《下拵え》が技能欄へ残った。
清掃、荷扱い(にあつかい)、下拵え。
覚えた名を指で追うと、俺が別の作業をしていた間に、分身が覚えた手つきまで残っていた。
料理も剣も、同じ午後に進んでいる。戻ってきた踏み込みを自分の足でなぞると、次の朝が、もう楽しみだった。
*
夕方、セラが薬の包みを持って戻った。
レドの診療所から届いた返事も、見せてくれる。
診療所の薬の補充は引き継いだ人が続けてくれていて、必要な薬草を揃えてから戻る便を決めればいい、とあるらしい。
「こっちの薬師さんに、湿地の草も教わりたいんだ。帰る前に、採れる所を確かめておく」
「じゃあ、次の採取は俺も」
「魚だけ見てないならね」
俺は一度頷き、ミナが残してくれた卵を彼女へ出した。
セラは端の焦げ目を見つけ、嬉しそうに取った。
「これ、レンが?」
「大将が焼きました」
自然に、そう呼べた。
ミナも顔を上げる。
俺は空いた場所へもう一度分身を呼び、彼の前へ布巾を置いた。
「大将、そこの皿を頼む」
今度は、俺まで振り向かなかった。
男が皿を受け取り、布を当て、棚へ戻す。
三つの動きは、もう何度も繰り返している。
この短い間だけなら、俺が一つずつ言わなくても、続けられるだろうか。
皿が片付く横で、俺は椅子を一つ引いた。
セラは卵を食べ終え、皿を俺へ返した。
「大将、って呼ぶの、似合ってる」
「ミナさんが、先に」
「うん。でも今、レンも普通に呼んでた」
俺は棚の前の男を見た。
隠しておきたい姿だと思った時より、してほしい仕事の方が先に浮かぶ。
最後の皿が棚へ収まる。俺は「お疲れ、大将」と声を掛けて、分身を戻した。
皿を拭いた感触に重なって、昼に卵を巻いた手首の動きも思い出した。
明日の朝も使えるように、今度は俺が焼き鍋を拭いてから仕舞った。
女将が厨房へ顔を出した。
「明後日の昼売り、前の卓も使っていいよ。大将の手があれば、焼きたてを待たせずに渡せそうだね」
俺は大将の立っていた場所と、窓の向こうの卓を見比べた。
掃除と仕込みに増えた手を、客の方へも向けられる。
「ミナさん。卵を添えた肉包み、出してみませんか」
「出そう。今日のを好きだった人が、明後日も買えるようにね」
次に大将と立つ場所が、楽しみになった。




