三十三食目 掃除の経験は剣より先に
「そこ、湯を当てる方が先」
ミナの声に、分身の手が止まった。
俺の手も、伝票の上で止まった。
「紙は洗わないでね」
「分かってます」
返事まで二人で揃って、パン屋の女将が吹き出した。
*
分身の出来た翌日から、俺たちはパン屋の厨房で仕事をしていた。
ミナの屋台を預かってくれている店だ。窯の灰を片付けた後も、台の下と排水溝の掃除までは、なかなか手が回らないという。
そこで俺から、手伝わせてほしいと頼んだ。
空いている台だけ借りて能力を試すのではなく、きれいにした分の工賃を貰う。やり方は女将とミナに見てもらえる。
「床を傷つけなければ、ありがたいよ」
女将はそう言い、こびりついた油を示した。
俺はまだ、分身へまとめて仕事を渡せない。同じ室内に座り、相手の手を見ながら、一つずつ指示した。
その合間に女将の注文票を日付順へ分ける。数字の読みは、料理の名よりだいぶ慣れてきた。
分身は濡れた布で台を擦っていた。
汚れが伸びるだけで、なかなか落ちない。
そこで、さっきのミナの一声だった。
「無理に削らず、温めて。ここの木、刃で傷つけたら、次の汚れが入るから」
湯を含ませた布を置き、少し待つ。
端から拭くと、さっきまで動かなかった油が、ひとまとまりに取れた。
俺は注文票を持ったまま、身を乗り出した。
自分の手では、まだ試していない。
向こうの俺が、布の柔らかい所を指の下へ置き直している。その手つきだけ、よく見ておいた。
*
区切りまで終えた所で、手を洗わせ、分身を戻した。
疲れの後から、湯の温かさが来た。
布へ力を掛けすぎると滑る。隅は指先で擦るより、折った布の角を入れた方が早い。
知識を誰かに聞いた、というだけの感じではない。
つい今まで、俺がそうしていた気がした。
俺は試しに、自分の手へ布を持った。
折り目はすぐ作れた。けれど、いざ拭くと腕へ余計な力が入る。
「手が変わった分は、合わせ直すんだね」
ミナに言われ、肩を下げた。
厚い掌が覚えた置き方を、今の細い指へ合わせる。
次は、汚れだけが取れた。
「あ。出来た」
台が乾くと、窓の光が薄く返ってきた。
俺が伝票を分けていた間に、もう一人の俺は、掃除が少し上手くなっていた。その感覚を、今はこっちの手で使えている。
これ、剣でも出来るのか。
そちらを考えるより先に、女将が次の台を示した。
「もう一つ、頼める?」
まずは、こっちで役に立てそうだった。
*
二日間、掃除と短い稽古を交互に試した。
分身に木剣で《穿牙》(せんが)の形を繰り返させ、俺は横で切っ先を見る。足と腰が揃った時だけ、続けてもらった。
何度も突けるのは便利だ。
ただし、肩が先に出た動きも、戻せば一緒に来た。
回収の後、自分でも突いてみると、さっき見たのと同じ所で剣が流れた。
「下手な方まで、律儀に」
ミナが井戸から戻る途中、笑った。
「上手かった所だけ選んで戻ってくれれば、最高なんですが」
「注文票だって、間違った数字は自分で直してるでしょ」
それもそうだ。
遅い一回を自分でやり直す。足へ印を置き、分身にも、同じ幅から始めてもらう。
回数を増やせるなら、正しく出来た回数を増やしたい。
疲れる前に戻し、食べて、休む。次の朝に自分でも同じ動きを確かめる。
翌朝、分身が覚えた足の幅を今の身体へ合わせると、俺の突きも一度、狙った布の真ん中へ戻った。
厨房の台は早く乾き、剣の線も昨日より細い。別々の場所で過ごした時間を、二つとも持ち帰れた。
*
分身の誕生から三日たった朝。
分身をまだ出さず、俺が自分で台の仕上げをした。
湯を当てている間に、隣の乾いた場所を拭く。布を替え、端から一息で汚れを取る。
最後に床を確かめた時、技能欄へ一行が増えた。
《厨房清掃》(ちゅうぼうせいそう)。
俺は思わず、布を持った手を上げた。
「増えました」
「何が?」
奥から顔を出したミナに、名を伝える。
彼女は台を撫で、指に汚れが付いていないことを確かめた。
「じゃあ、ここは正式に任せるね」
新しい剣技を覚えた時も嬉しかった。
でも、この一言も、かなり嬉しい。
女将は仕上がりを見て、工賃の銅貨を渡してくれた。頼んだ範囲を、ちゃんと終えた分だという。
「パンは、食べたい分を買っていきな」
遠慮なく、焼きたてを選んだ。
*
白豆のパンへ刃を入れると、皮が細かく割れた。
中へ薄く切った肉と、酸果で漬けた葉を挟む。噛むと温かい豆の甘さと、きりっとした酸味が交互に来た。
「剣より先に、台所で指名が入りました」
俺が言うと、ミナが自分のパンを持ち上げた。
「私も指名する。明日は、仕込みに早く入れるから」
「仕事が増えそうです」
「終わるのも、早くなるよ」
女将が窓を開け、まだ熱いパンを売り台へ並べた。今日は昼の客が来る前に、窯から卓までの床が乾いている。
ミナもその横へ肉包みを置く。二人の品を一緒に買った客が、包みから立つ匂いに頬を緩めた。
俺は笑って、もう一口食べた。
仕事が早く終わり、昼をゆっくり食べられる。午後の休みまで、自分で作れた。
分身で強くなったら、いつか楽が出来ると思っていた。
もう、少し出来ていた。
食後に本を開くと、借りた頁の端が少し浮いている。ロザの入門書を貸してくれたサイへ、今度はこの分身の話も相談しよう。まず自分で記録したことをまとめてからだ。
俺は汁の椀を、本から遠い方へ動かした。
女将が通りかかり、床へ目を落とす。
「椅子を引いても、油で滑らなくなった。ありがとうね」
俺は足もとを見た。
さっきまで、きれいになった台ばかり見ていた。床が乾いているから、熱い天板を運ぶ人も、途中で歩幅を変えずに済む。
「次、窯の前もやりましょうか」
「窯が冷えてからね。そこは明日、私が教える」
頼まれた仕事の先に、次の仕事が出来た。
剣の技名ほど派手ではないけれど、もう一度呼んでもらえる腕前になったのは、誇ってよさそうだった。
*
その日の午後、宿の裏から金具の音がした。
「ここにいたか」
戸口に、ガドが立っていた。
片方の肩に工具袋、もう片方へ掛けた紐には、納品の札が付いている。
「サルナへ金具を届けに来るって話、しただろ」
「覚えてます。ちょうど、手が増えました」
ガドは、俺の両手を一度見た。
「二本だな」
「今は、です」
庭の空いた所へ移り、俺は一分かけて分身を出した。
現れた男を、ガドは正面から見て、次に掌と足を見た。指の奥の光へ一度だけ眉を上げ、渡した工具の重みを確かめる。
俺は、視線から隠れる代わりに、隣へ立って待った。
「道具は持てるのか」
「持てます。痛みが分からないので、途中の点検は必要ですが」
「なら、休みも仕事へ入れとけ。明後日、杭と道具を運ぶ手が欲しい」
俺はもう一人の俺を見た。
分身の手を借りれば、ガドの仕事も手伝えそうだった。
「帰りに、魚は獲れますか」
「仕事が終わればな」
俺たちは、同時に頷いた。
ガドは工具袋から、小さい紙も出してくれた。村へ寄った荷の便から預かった、エナの返事だという。
覚えた料理を作りに帰っておいで、とある。最後の行には、鍋の絵は少し上手くなったか、と書いてあった。
俺は紙を丁寧に畳んだ。
今度は、片付けまで二人で出来る。
それも帰った時に見せたかった。
ガドを見送り、分身を戻してから、明後日の荷を自分の手でまとめた。




