三十二食目 痛くなくても、壊れている
「その手、もう使わせないで」
セラの声に、俺は分身を椅子へ座らせた。
小鍋は台の上だ。ミナが布を巻いて持ち手を確かめ、まだ熱かったと眉を寄せる。
「鍋つかみ、渡せばよかった」
「俺も、持ったら分かると思ってました」
自分なら、熱ければ離す。痛ければ力を抜く。
その当たり前が、隣の俺にはなかった。
セラは分身の掌を開かせた。人差し指の付け根だけ、光の線が切れ、縁が二重に揺れている。
湯気の出た鍋を握り続け、形を保つ所を傷めたらしい。明るさはあっても、指が動かなければ無事ではない。
「私の指を、弱く握って。出来る分だけ」
分身は、言われた通りにした。
「痛みは?」
「ない」
「動かしにくい?」
「少し」
そこで初めて、違う返事が返った。
痛くないのと、壊れていないのは別だ。
分身にした質問を、俺は自分の中で言い直した。
*
《実体分身》(じったいぶんしん)の詳細を、落ち着いて開き直す。
戻す操作はあった。
けれど、怪我をした身体を戻せば、俺の指まで曲がらなくなるのか。
画面の短い説明には、経験と残存疲労の回収、とだけある。経験の中へ、手の傷まで入っているのかは分からない。
「怖いなら、今日はそのまま休ませてもいいよ」
セラは急かさなかった。
俺は自分の右手を開く。
分身の右手も、開かせる。
掌は別々で、痛みは伝わってこない。今ここで、疲れている彼をずっと働かせないことは決められた。
「座ったまま、戻してみます。俺が急に倒れたら、支えてください」
「椅子は、もう後ろにある」
ミナが背を押してくれた。
手に持つ物をすべて台へ下ろす。分身の足もとを空け、俺は自分の椅子へ深く座った。
戻す。
指先の光が、手首、肩へと揃って閉じる。男の輪郭がほどけ、最後に椅子の上の影が消えた。
直後、肩へ重い布を何枚も掛けられたようなだるさが来た。
「うわ」
腕を上げかけ、膝へ落とす。
洗った皿の縁。籠の固い編み目。持ち手を握る角度。
さっきまで向こうの俺だけが触っていたものを、俺は覚えていた。
自分の指に傷はない。一本ずつ、ちゃんと曲げられる。
なのに、働いた腕のだるさは、ちゃんと二人分あった。
「そっち、ずっと棚を拭いてた方だよね?」
ミナが、消えた男の椅子と俺を見比べる。
「ええ。鍋を持つ仕事は、任せたつもりだったんですが」
「今、鍋を持っていた分の疲れが来た?」
「すごく」
思わず肩を回そうとして、やめた。
楽をするための分身が、仕事の請求をまとめて持ち帰ってきた。
そのことより先に、あの手を無理に使わせず戻せたのが、ありがたかった。
*
セラに自分の手も確かめてもらい、俺は水を飲んだ。
指に傷は移っていない。代わりに肩と前腕へ来た疲れを、しばらく座ってやり過ごす。
ミナが卵入りの麦粥を温めてくれた。
湯気へ酸果の皮が少し混じっている。匙で底からすくうと、麦と柔らかい卵が絡み、飲み込んだ後も腹の内側に温かさが残った。
「今日は、これを食べたら終わりでいいんじゃない?」
「分かったことを忘れないうちに、紙へだけ」
ユルが机を寄せてくれた。
俺は、痛みでは分からない、と書いた。その下へ、動きと手を見る、と足す。
何分働いたかも書く。俺の腕が平気だからといって、向こうも休まなくていいわけではなかった。
「鍋を持って、って頼む時には」
ミナが続ける。
「布を巻いて、ここへ下ろして。そこまで言えばいいんだね」
「痛みを合図に出来ないなら、今度は持ち手を見る時間も決めましょう」
紙へ、運ぶ、下ろす、手を開く、と並べた。相手が返事をするまで、次の物は渡さない。
次は仕事を一つ選び、終わった所まで見る。それで十分、二人で出来ることはある。
俺が紙を押さえている間、セラは空いた椅子へ腰を下ろした。
「今日は、驚いた?」
「すごく。皿が持てた所までは、楽しかったです」
「それは、私も見てた」
彼女は笑い、俺の書いた一行へ指を添えた。
「今、下ろす場所まで決めたでしょう。次もそうすれば、任せられることは残ってるよ」
使えないと決めるのでも、平気だと押し切るのでもない。
目の前の一つへ、ちゃんと手を付ければいい。
「セラさんの仕事も、少し減らせるといいんですが」
「じゃあ、最初は自分で休んで。私が言う前に」
俺は持っていた筆を置いた。
彼女が、満足そうに頷く。
セラは俺の書いた時刻を確かめ、午後の診療へ出る前に、もう一度だけ手を見てくれた。
「次に呼ぶ時も、始める前に見て。途中もね」
俺は頷いた。
*
食事が落ち着くまで休み、自分の疲れへ《代謝加速》(たいしゃかそく)を少しずつ使った。水を飲み、無理なく動ける所まで待つ。
返照石は作業台の箱の中だ。俺は庭へ出て、何も置かれていない土へ分身を出し直した。
光を一分、途切れさせず流す。
現れたのは、同じ男だった。
若い方の自分を考えてみても、この一体の身体記録は、もうその姿へまとまっているらしい。
さっき手に入れた説明欄にも、保存された一体目の記録、とある。気に入らないから取り替える、というものではなさそうだった。
掌を見せてもらう。傷はない。
指も開く。
俺は胸の中で、ゆっくり息を吐いた。
今度は洗った布を、二枚だけ渡した。
「この二枚を、そこの紐へ。終わったら椅子へ座ってくれ」
男は立ち、布を広げる。
俺は後ろから、指が片方だけ曲がっていないか見た。彼が座ると、一緒に自分の肩も確かめる。
次は、空の籠を一つ。
台から地面へ、近い場所だけ。
途中で何も起きなかった。
何も起きずに、洗った物が乾く方へ運ばれていく。それだけで、ミナは仕込みの手を止めずに済んだ。
仕事の区切りごとに座り、俺も水を飲む。
「なんだか、二人とも同じ時に休むね」
調理台から顔を上げたミナに言われた。
「後で一人が、まとめて休むよりいいので」
彼女は笑って、二つの椅子の間へ水差しを置いた。
まだ分身に飲ませてはいない。俺は自分の杯へだけ注ぎ、次の作業の前に口を潤した。
*
夕方、分身を戻しても、今度は肩がいきなり落ちなかった。
布を引いた感覚と、籠を置く時の小さい重みが来る。
さっきより軽い。それも、ちゃんと働いた記憶だった。
ミナが夕飯を作る間、俺は昼に分身が拭いた皿を棚から下ろした。
縁の裏側に、薄く汚れが残っている。
見つけた途端、ああ、そこへ布を入れにくかった、と思った。
俺はこの皿を拭いていない。
昼の俺は、別の棚へ手を伸ばしていた。
それでも、狭い縁に沿わせようと布を折った感触がある。
試しに同じように折ってみると、布の角がちょうど縁へ入った。
「そこ、もう一度洗う?」
ミナの問いに、俺は皿を持ち上げた。
「洗います。それと、明日、教えてほしいことが一つ」
「何を?」
「分身の方に、掃除のこつを教えてほしいんです」
疲れだけが戻るのなら、その分だけ俺の休む時間も増える。
けれど、分身が覚えた手つきまで自分のものにできるのなら。
俺は布の角を、もう一度、皿の縁へ通してみた。




