三十一食目 太った俺が、皿を持つ
増やしたかったのは、皿を持つ手だった。
どうして俺が、丸ごと増えているんだ。
しかも、こっちへ来る前の姿で。
*
蟹を食べてから三日。サルナの宿の裏庭で、俺は返照石の上に掌を作っていた。
昨日は開いた形で保てた。今朝は、椀を抱えるように手首を曲げても崩れない。
「一分です」
砂時計を見るユルの声と同時に、技能欄が明るくなった。
《実体分身》(じったいぶんしん)。自身の身体記録をもとに、蓄えたエネルギーで実体を作る。
今は、一体。
生成に40 kcal。生成した後も、保つための力が要る。
俺は、作りかけの手を見た。
手だけではなく、俺を作れる。
片方が皿を運んでいる間に、片方が食べる。いや、料理を教わりながら、もう一人が木剣を振れたら。
紙へ書こうとして、先に口が動いた。
「俺が寝ている間に、片付けが終わるかもしれません」
「今、それを最初に考えた?」
朝の診療の手伝いから戻ったセラが、笑った。
「かなり、大事なので」
ミナは棚へ皿を戻しながら、じゃあ一枚目からお願い、と言った。
俺は他の強化を止めた。返照石を箱へしまい、ユルに空けてもらった土の上へ手を向ける。
石から二歩、離れた場所だ。
椀を胸へ寄せた時の重さを思い出す。
光が、掌の形になった。
そこから、手首。肘。肩。
琥珀色の筋が薄い輪郭を繋ぎ、内側へ厚みが満ちていく。紺の袖が膨らみ、腹の位置に、思ったより大きな影が出来た。
庫の貯蓄が、減っていく。
止めずに、一分。
砂が落ち切った。
二本の足が土を踏み、草の穂を倒した。
俺の前に、男が立っていた。
厚い掌。丸い腹。少し下がった肩。
黒髪の下の眉も、頬に埋もれかけた笑い皺も、毎朝、鏡で見ていたものだった。
梶原蓮。二十九歳。
最後に覚えている俺が、今の俺と同じ目の高さで、こちらを見ている。
「……そっち?」
若い方を写すつもりだった。
毎日使っている手も、足も、今はこちらなのに。
男も自分の掌を見た。袖口の奥に淡い火色が残り、手首を動かすと、その筋へ細く光が走る。
顔は、透けなかった。
黒い目が、俺を見返した。
俺はつい、彼と皆の間へ半歩入った。
隠せる幅でもないのに、肩だけが落ち着かなかった。
「ちゃんと、影があります」
ユルが屈む。
ミナも棚から振り向いた。
「この人が、レンの分身?」
「そのはずです。思った姿とは、少し違いましたけど」
どこまで違うのかは、言えなかった。
セラが俺の顔を見てから、男へ目を向ける。
「触ってもいい?」
頷くと、彼女の指が紺の袖へ触れた。布が指の下でくぼむ。
「隣にいるんだね」
その言い方で、俺は少し息が出来た。
*
棚から皿が滑った。
ミナが抜いた布巾へ、一枚の縁が引っかかったのだ。
「あ」
俺が手を出す。
隣の男も、同じ方へ手を出した。
二つの掌がぶつかりかけ、俺は自分の方を引く。
厚い指が、皿を受けた。
手首の奥を、短い光が走る。
白い縁の揺れが止まった。光をすり抜けず、ちゃんと掌に載っている。
代わりに、俺の持っていた布巾が土へ落ちた。
そっちは、誰も受けてくれなかった。
「……分ければよかったですね」
俺が布巾を拾うと、ミナが皿を受け取った。
「今ので、すごく助かったけど」
土はついていない。皿は無事だ。
男の掌へかかった重みは、俺の手には来なかった。今触っているのは、向こうの身体なのだ。
俺は空籠を寄せた。
「皿を受け取って、その籠へ立ててくれ」
男が皿を持ち直す。その間に俺は棚の段を空けられた。
次の一枚を頼む。置いてもらう。
俺は籠を持って棚へ戻る。二枚目が、もう向こうの手にある。
同じ卓の両側で、仕事が同時に進み始めた。
「これ、相当便利では」
「今、気づいたの?」
ミナの返事に、笑いが漏れた。
笑ってから、隣を見る。
前の俺を見て笑われることを、勝手に身構えていた。
皆が見ていたのは、割れなかった皿と、もう一つ片付いた棚だった。
*
昼には二人とも、木陰へ座った。
男は厚い手を膝へ置く。動かしていない掌にも、小さな火種のような筋が残っていた。
貯蓄は、少しずつ減る。
座っているだけで約1 kcal/分。皿を運ばせた時は、もっと早く減った。
出せば後は無料、というわけにはいかない。
それでも、さっきまで俺が往復していた幅を、二人で一度ずつ進めた。
ミナが豆と卵を挟んだ薄パンを渡してくれた。端を噛むと卵が少しはみ出し、粗く潰した豆の甘さが後から来る。
男は、まだ木陰で待っていた。分身の食事は、今日は試していない。
「食べられると分かったら、仕込みを増やすね」
ミナが空いた椀を数える。俺は頷き、隣の席を見た。同じ皿を二つ並べるのも、悪くなさそうだった。
休憩の間にユルが描いた絵には、箱へしまった石と、そこから離れて立つ男が別々にあった。人の姿へ光が満ちた順まで、書き添えてある。
俺が描くより、俺に似ていた。
前の俺にも、似ていた。
隅に描かれた今の俺は、同じ向きに椀を持っている。
「服は、違うね」
ミナの声に顔を上げた。紺の仕事着に似た袖を、男も見下ろしている。
「その辺りも、俺の覚えているものみたいです」
「料理の時は、前掛けを貸そう。油が跳ねるから」
彼女はそれだけ言って調理台へ戻った。俺は紙をもう一度見てから、裏返した。
「その絵、取っておいてもらえますか」
ユルは何も訊かず、頷いた。
*
食事が落ち着いた午後、洗い物の続きをした。
俺が棚を拭き、男が皿を拭く。籠がいっぱいになれば、一度手を止めてもらう。
一つ頼めば、その仕事を終えるまで、向こうの手が動く。任せきりには出来なくても、拭き終わった皿は、もう一枚ずつ増えていた。
ミナはその間に明日の具を切り終えていた。
「あの小鍋、台へお願い。底を乾かしたいから」
湯を空けたばかりの鍋だ。俺は棚の板を取り、男へ持ち手を示した。
男の手が、横にあった布へ伸びる。柄を包んでから、両手で持ち上げた。
昔、台所で俺がしていた持ち方だった。
何を持つかは俺が頼んだ。けれど、熱い物へ布を添える癖まで、一から教える必要はなかった。
俺は板を敷いた。
「ここへ。ゆっくり」
鍋が下りる。空いた四本の手が、台の両側へ並んだ。
ミナが最後の包みを結び、窓へ顔を向ける。
「まだ、明るい」
いつもなら、そこから俺が洗い物を始めていた。今日は鍋も皿も、もう並んでいる。
「じゃあ、次は座る場所ですね」
俺は椅子を二つ、木陰へ寄せた。男も来る。厚い掌が背へ添えられ、二脚が同じ向きに揃った。
こんな顔で、俺は今まで働いていたのか。
見ていると、まだ胸の奥が落ち着かなかった。それでも、さっきまで隠そうとした幅を、今日は椅子二つ分、空けておきたかった。
「お疲れ」
小さく言うと、男が頷いた。袖の奥の火色は、静かに残っていた。
もう一つ、知りたいことがある。
俺が棚を拭いている間、彼は皿を拭いていた。その二人分の午後を一人へ戻したら、何が残るのだろう。
俺は隣の椅子へ腰を下ろした。
今度は、二人で終えた今日を、持ち帰ってみたかった。




