三十食目 塩の花を、最後のひと振り
蟹は倒せた。けれど、洞窟からどう運び出すかで、また四人とも頭を抱えた。
「脚を外せば、四人で持てますかね」
俺が訊くと、ユルは剣ではなく、細い帰り道を見た。
「あの曲がり角を、これが通るなら」
結晶蟹の鋏は、俺の胴ほどもある。
ミナが、自分の鍋の蓋を重ねてみた。端が見えなくなった。
「これは、鍋を大きくする方が早いね」
「その前に、曲がり角を通れる大きさにしないと」
切り分けて運べる人を、呼ぶしかなさそうだ。
ユルとミナに町まで戻ってもらい、俺とセラは高い寝床の棚で待つことにした。蟹のそばへ居座らず、通路を見下ろせる所へ荷を上げる。セラに手首を診てもらっている間も、俺の目は、ときどき白い脚へ戻った。
「傷があるのは、その手首だよ」
「蟹は、晩飯になるかもしれないので」
「晩飯になるまでに、日が暮れると思うよ」
実際、その通りになった。
*
夕方、二人が解体屋を連れて戻ってきた。男は蟹を確かめ、太い刃物を岩の上へ並べた。
「よく、殻を割らずにやったな」
褒められたので、俺は少し胸を張った。
「割れなかったんです」
「そりゃ、いい。売れる所が多い」
そういう褒め方だった。
男は殻の買い取り額と、解体・運搬・冷蔵の代金を紙へ並べた。身を残しても四人へ報酬が出る見積もりだ。
皆で倒した蟹だ。ユルの案内料とは別に、討伐の取り分も四つへ分けると決めた。
男は白い層を剥がし、脚の付け根へ刃を入れた。俺が突いた傷とは反対側だ。殻の継ぎ目を少しずつ開くと、長い脚が一本、丸ごと離れた。
「持ってみるか」
両腕で抱えた。
重い。だが、運べる重さになっていた。
《消費配分》(しょうひはいぶん)で脚と胴、腕へ合計10 kcal/分を回す。解体屋の助手と二人で木箱へ下ろし、蓋をする。もう一度潮が引いた頃、箱を低い入口から順に運び出した。
高い細道を通るのは人と小さな荷だけ。大きい獲物には、待つ時間も必要だった。
町へ戻って精算を済ませ、身は解体場の保管箱へ預けた。氷を足して冷やす箱は、日ごとに代金が掛かるらしい。
「食べる日が決まったら、前もって言ってくれ」
「大鍋を借りられる日にしましょう。先に相談してきます」
俺がミナを見ると、彼女は頷いた。
「ダンに頼んでみよう。せっかくだから、一緒に食べてもらいたいね」
別れ際にダンが見せてくれた、修理済みの大鍋を思い出す。今度は本当に、鍋いっぱいの料理を頼めそうだ。
*
翌日は、昼まで寝た。
起きてパンと豆の汁を食べ、水を飲んでから、もう一度寝台へ戻る。食事が落ち着いた午後に《代謝加速》(たいしゃかそく)へ5 kcal/分を回し、張った肩を休ませた。
その日は剣を振らず、返照石の練習だけにした。
石の上へ、椀を持つ手を作る。
《魔力操作・初歩》(まりょくそうさ・しょほ)で魔素を広げると、指が揃った。動かそうとした途端、親指がほどける。
それでも、前に試した時より慌てなかった。
水の糸も、最初は届かせようとするほど落ちた。小さく、近く。それが揃ったら、少しだけ先へ。
《消費配分》から試行へ渡すのは10 kcal/分。石のすぐ上で輪郭を保ち、消えたら手を休める。夕方には、椀の底を包む形が、俺が息を吐き終えるまで残った。
次の朝も、出来た。
朝飯の席で、ミナが鍋を借りられたと教えてくれた。ダンも明日なら来られるという。宿の主人に庭の火を借りる話も通してくれたので、解体屋には明日、身を受け取ると伝えた。
その後で、いつもの荷箱を借りた。セラに見てもらいながら、身体へ回す量を少しずつ増やす。
剣の稽古、荷運び、水術。別々のことをしていたつもりでも、力を寄せては戻す動きは、どれにもあった。
箱を台へ置き、手を離す。
肩も、膝も、震えなかった。
最大追加消費 40 kcal/分
休んでから、もう一度持つ。
今度も置けた。
「大きい箱に替えます?」
「今日は、それを元の場所へ戻せたら終わり」
セラの言う通りにした。翌日に蟹を食べる約束は、もう決まっている。匙を持てなくなるまで頑張る理由がなかった。
《余熱庫》(よねつこ)の上限も、練習して休むたびに広がっていた。けれど、増えた空きへ力が勝手に詰まるわけではない。
その空きは、明日の蟹で埋めるつもりだ。
*
蟹を倒して三日後の朝、昨日と同じ出力をもう一度確かめた。強化を止め、荷箱を戻したところへ、ダンが来た。
肩には、あの鍋があった。
「約束の鍋だ。今朝も水を入れて確かめたぞ」
「漏れませんでした?」
「漏れたら、背負って来るか」
底を見せてもらうと、継ぎ目がぴたりと塞がっていた。前は食事の器にするにも大きすぎた鍋が、今日は頼もしい。
ミナが両手を合わせた。
「これなら、脚を節ごとに切れば蒸せる」
「鍋の礼は、一杯でいいぞ」
ダンが言う。
俺は念のため、椀の大きさを見た。
「お前が決めるな」
まだ何も言っていなかった。
宿の主人に借りた裏庭で、石を組んで鍋を据える。洗った小さな殻を底へ重ね、その上に木のすのこを置いた。水は、すのこに届かない高さまで。
氷の箱から受け取った脚を載せると、ようやく今日の獲物が食べ物に見えてきた。
「これなら一度に蒸せるね。レン、薪をお願い」
ミナに頷き、俺は薪を運ぶ方へ回った。《消費配分》は腕と脚へ合計3 kcal/分。切った薪も、食器も、置く場所を先に空ける。
蓋の隙間から、白い湯気が出た。
あの洞窟の白さとは違う。
今度は、近づきたくなる匂いだった。
*
脚の殻を割ると、中から白い身がせり出した。
指で引く。太い繊維がまとまったまま抜けて、皿へ載せる前に、温かい汁が手首へ伝った。
「まず、そのまま」
ミナに言われ、一口齧る。
歯が入ったところで、身がほぐれた。
小蟹よりずっと厚い。なのに硬くない。噛むと甘い汁が舌の奥まで広がり、飲み込んだ後にも、磯の香りが鼻へ戻ってきた。
俺は次の一口を持ったまま、止まった。
隣でセラも止まっていた。
ユルは何か言いかけ、口を閉じて噛み直した。ダンまで黙っている。
ミナだけが、俺たちの顔を順番に見た。
「……喋らないと、不安になるんだけど」
「おいしくて、噛むのを止めたくなくて」
「返事より、蟹?」
俺は頷き、ようやく全員が笑った。
二口目には、酸果を絞った。
爽やかな酸味の後から、さっきよりはっきり甘さが来る。次に手を伸ばすのを止められず、俺は殻の片側を綺麗に空けた。
ミナが小さな包みを開く。
塩の花だ。
自分たちで道を探し、採って、鑑定してもらった薄い結晶。俺は手の汁を拭き、ひとつまみだけ取った。
「かけすぎないで。もともと、少し塩気があるから」
指を離す。
白い身の上へ、透き通った欠片が落ちた。
噛んだ瞬間、小さく砕ける。
そこだけ塩気が濃くなり、その後に広がる蟹が、驚くほど甘かった。
ああ、この味のために来たのか。
レドで揚げた蛙へ塩を振った時には、同じ卓にこの人たちが並ぶことまで、考えていなかった。
「来てよかったです」
俺が言うと、ユルが殻を置いた。
「僕も。今の道を、地図に描き直せたので」
「それに、蟹もうまいですしね」
彼の皿を示す。
ユルは笑って、残った身へ塩を一粒、足した。
*
殻で取った汁には、パンを浸した。
焼けた表面が汁を吸い、匙で押すと、柔らかく沈む。口へ運べば、小麦の甘さの後から、もう一度蟹の味がした。
俺は二杯目を先に取り分けた。
「その椀、まだ空いてないぞ」
ダンが言う。
「冷ましておく分です」
「なるほどな」
隣へ彼の二杯目も並んだ。
ミナは鍋を覗き、笑いながら俺たちの分を足してくれた。
「次は、湿地の魚を潮葉で包んでみたいな」
「案内なら、また頼んでもらえますか」
ユルが顔を上げる。
「父の図を写すだけじゃなくて、僕の図にしたいんです。休める所も、今日みたいに火を使える所も」
「鍋を置ける場所も、お願いします」
「それ、書いてあります」
ミナが嬉しそうに頷いた。
俺も、次の採取の相談を始めた。今度は食べたい物の名前だけでなく、持って帰る道と、調理する場所も訊けた。
セラは、一度レドの診療所へ戻るつもりだと話した。帰る日を相談する手紙を、明日の便へ預けるという。
「また一緒に出られるように、留守中の薬の補充を任せられるか相談しておく」
「その時は、何を食べたいですか」
「今日と同じくらい、私の分が残るもの」
俺は伸ばしかけた匙を止めた。
彼女は笑い、自分の椀を引き寄せる。
「大丈夫。もう取ってある」
*
鍋を洗い、火を始末し、余った薪を宿へ返した。
椅子へ腰を落ち着け、のんびり喋っているうちに、庭の影が長くなる。解体屋への支払いの控えも、使った道具も片付いた頃には、食事の吸収も落ち着き、《余熱庫》へ朝より多くの力が収まっていた。
俺は作業台の端へ、返照石を置いた。
最後に、少しだけ。
試行へ8 kcal/分を回し、掌の輪郭を石の上へ広げる。さっき持った椀の丸みを思い出すと、五本の指が揃った。
俺の右手は、卓へ伏せたままだ。
もう一つの手だけを、開いてみる。
光の指が、ゆっくり伸びた。
「レン?」
乾いた皿を棚へ戻そうとしたミナが止まる。
驚いて顔を上げても、今度は消えなかった。
まだ、皿一枚も持てない。
けれど、二本しかなかった手の横で、三本目がちゃんと開いていた。




