二十九食目 水の糸、牙の一突き
剣が、鳴った。
ユルが左の細道へ取り付き、ミナが鍋の袋を押し上げた。その背へ、主通路にいた青白い蟹の脚が伸びる。
俺は二人と蟹の間へ入り、剣を当てた。刃が弾かれ、手首まで痺れる。白い殻には、線ほどの傷もなかった。
「先に上へ!」
ユルが上から袋を受け取り、ミナを引き上げる。セラも続き、俺が入れるだけの隙間を空けた。
鋏が下りてくる。
俺は《消費配分》(しょうひはいぶん)で脚を強め、左の細道の口へ身を引いた。さっきまで足を置いていた岩へ鋏が落ち、二つに砕いた。
《収支眼》(しゅうしがん)で脚を追い、防御も保つ。合計30 kcal/分。腕を強める余裕はなかった。
岩の隙間へ身を滑り込ませると、鋏の先が入口を削った。狭い道を、四人で少しずつ進む。外へ抜けると海風が頬へ触れ、ようやく皆の顔が見えた。
全員いる。
俺は座り込み、剣を膝へ置いた。
靴紐に白い欠片が引っ掛かっていた。鋏が岩を打ったとき、脚の継ぎ目から散ったものだ。外して小袋へ入れる。
「剣の刃、研ぎ直さないとね」
ミナが言う。
「蟹の殻は、無傷なのに」
「まずは、剣の傷を直そう」
俺は刃を傾けた。小さく光る傷の向こうで、洞窟の水が白い泡を吐いている。
逃げる間に、一つだけ見えた。
濡れた関節へ、白いものが集まっていた。
*
翌朝、サルナのギルドで殻の欠片とユルの図を見せると、職員が結晶蟹の成体だと教えてくれた。
「普通の殻の上へ、塩の結晶を重ねる。濃い潮溜まりに居つかれると厄介だ」
居場所を伝えると、ギルドは奥の採取を当面控えるよう掲示した。討伐依頼も出る。高い細道で出入りできても、採取中にあれと鉢合わせしたら危ない。
別の討伐隊を待つ手もある。俺はまず、殻をどうにかできるか試すことにした。
剣を研ぎへ預けた帰り、ミナが俺の袖を引く。
「殻の欠片、拾ってきたでしょ」
袋に入れてあった白い粒を出す。
彼女は二枚の小皿へ分け、片方へ塩をたっぷり溶かした水、もう片方へ井戸水を注いだ。
井戸水の方だけ、角が丸くなった。
「サイさんの所でも、こうだったよね」
「じゃあ、水をかければ」
「全部は無理。中の殻は残ってる」
白い層が薄くなると、その下に茶色い膜が見えた。脚の曲がる所から剥がれた欠片らしい。厚い甲羅そのものではない。
俺はそこへ細い棒を当てた。
白い所では滑った先端が、膜には引っかかった。
横からユルが、昨日描いた図を広げる。
「潮溜まりへ戻られると、また固めると思います。こっちへ出すなら、平らな棚があります」
「そこで、水を当て続ける?」
「脚は動くよ」
セラが指を二本、図の上でずらした。
「水を持つ人まで鋏の下へ出ない方法が要る」
俺は指先を見た。
卓へ零した、一滴。
「水を近くまで流せば、脚へ曲げる分だけなら試せそうです」
*
昼前、宿の庭を借り、水皿と布を巻いた杭を並べた。杭は蟹の脚、セラが振るう棒は鋏の届く範囲の代わりだ。
本には、水術《導水糸》(どうすいし)とある。
水を生み出すのではなく、今ある水へ細く触れ、向きを変える術。《消費配分》で水術の練習へ8 kcal/分を回し、《魔力操作・初歩》(まりょくそうさ・しょほ)で水へ触れる。挿絵は優雅だったが、俺がやると、皿の水は途中で団子になって落ちた。
「まだ、糸じゃないですね」
ユルが濡れた足もとを避ける。
「今日は、庭に水をまく依頼も受ければよかった」
ミナが木切れへ溝を彫りながら言った。
「今からじゃ、遅いですか」
「その杭の周りだけ、草が育つよ」
俺は笑い、皿の水を少なくした。
細く、短く。
返照石の光と同じだ。勢いを増すと、水がまとまらない。
布を巻いた杭へ、水を一匙ずつ運ぶ。落ちたらやり直し、続けて当てられたら杭を遠ざけた。
水が流れるようになると、今度は俺の足が止まった。
術に気を取られ、セラの棒が届く範囲へ踏み込んでいたのだ。
「当たった」
棒を下ろしたセラが言う。
俺は水皿を置いた。
水術への配分を止め、次は木の剣を握る。
ギルドの庭から続けてきた、突いて戻す動き。旅の朝も枝で練習していたのに、速くすると、どうしても肩が先に出る。
狼の時は避けてから腕へ回せた。今度は、自分でその順を作る。
足を置く。腰を送る。最後に、切っ先。
強化を止めても同じ所へ届くよう、まず遅く繰り返した。形が揃ってから、《消費配分》の10 kcal/分を脚と体幹、腕へ分けて同じ突きを試す。
昼の汁は、麦と鶏の団子入りだった。
匙で割ると、刻んだ潮葉の香りが湯気へ混じる。柔らかい団子を飲み込む頃には、指の強張りも少し薄れていた。
「明日、もう一度やります」
「先に昼寝も入れて」
セラは自分の椀を持ち、俺とは別の日陰へ腰を下ろした。彼女にも、棒を振った腕の休みが要る。
俺は汁を飲み干し、杭の印を見た。
獣の牙のように、一点を鋭く突き通す。
この突きには、《穿牙》(せんが)と名を付けようと思った。
*
翌日は、最初の水が零れなかった。
突きの後に戻す足も、元の位置からずれなかった。
休憩を挟み、食べて、夕方に同じことを試す。最後の一回だけ成功した時とは、手の中の感じが違った。
画面へ、新しい二行が増えた。
水術《導水糸》 習得
剣技《穿牙》 習得
研ぎから戻った剣を、思わず持ち上げた。
「スキルが、二つ増えました」
「見せびらかすのは、一本なんだね」
ミナが俺の剣を指した。彼女には見えない表示を、剣で見せようとしていた。
俺は笑って下ろした。
明日も出来ると思える動きが、二つ増えた。
*
逃げた日から三日後の朝、ギルドで四人の手順を確かめた。水が足りなければ撤退。退路を塞がれそうなら、先に引く。
皆で依頼を受け、水袋と木の樋を持って塩花洞へ戻った。
ユルが潮を確かめ、高い細道を退路に決めた。低い入口から入ると、奥の潮溜まりの手前に、平らな棚がある。
奥の潮溜まりへ向いて、棚の右端に腰より高い岩がある。ミナとセラはその裏へ井戸水を置き、退路側を空けた。飲み水は別だ。
木の樋は溝を彫った細長い板で、岩の上から棚の中央へ斜めに渡す。注いだ水が、低い先端まで流れてくる。
ユルは高い場所から蟹と退路を見る。俺は樋の先の横へ立ち、右手に剣を構えた。水へ触れる左手は空けておく。
剣の腹で岩を軽く打つ。
潮溜まりの蟹が、こちらを向いた。
最初の鋏を横へかわし、次は樋の先まで一歩下がる。背中と脚へ配分を残し、蟹を乾いた棚まで誘った。
「あと、半歩!」
ユルの声に、足を引く。蟹の前脚が、潮溜まりを離れた。
ミナが樋へ水を注ぐ。俺は左手の指先で出口の流れに触れた。
《導水糸》。
樋を流れてきた水の先が、細く持ち上がる。
《消費配分》を組み替え、《導水糸》へ10 kcal/分を渡す。その分、脚の強化と防御を削った。全部を一緒に強くしようとしたら、どれも半端になる。
動く関節の白い隙間へ、水を沿わせた。
一息。
二息。
蟹が脚を引く。糸が千切れ、水が岩へ散った。
狙いが遠い。
もう半歩、水を届かせようと近づいた足が、濡れた石で滑った。
「樋の下をくぐって、岩の裏へ!」
セラの声に従って転がる。鋏が頭の上を通り、伸びていた樋の先を砕いた。ミナは岩の裏に残り、折れた樋を引き戻した。
蟹が潮溜まりへ向き直る。
追うな。今度は、こちらへ来させる。
俺は岩の脇から姿を見せ、剣の腹で石を打った。蟹が脚を止め、また俺へ鋏を向けた。
ミナが短くなった樋を、岩の縁へ置き直す。俺は岩に肩を沿わせ、水の出口の横で待った。蟹がこちらへ鋏を伸ばし、岩に近い前脚を縁へ掛ける。曲がった付け根が、左手の半歩先へ来た。
今度は長く伸ばさない。
《導水糸》で、その白い継ぎ目だけを洗った。
茶色い膜が見えた。
《収支眼》に映る、そこへ集まる流れが太くなる。洗った膜の縁に、白い粒が一つ浮いた。
もう、結晶が戻り始めている。
俺は《導水糸》を止めた。
術へ使っていた10 kcal/分を、《消費配分》で踏み込みと、その後の突きへ回す。
水へ向けていた左手を、剣の柄へ戻す。
岩を蹴り、腰が進んでから腕へ配分を渡す。
「――《穿牙》!」
切っ先が、洗った前脚の付け根へ入った。
今度は、殻に弾かれなかった。
剣の鍔まで届く前に引き戻し、同じ線で下がる。頭のあった所へ鋏が叩きつけられた。
刺した前脚が力を失い、巨体の重さで外へ折れた。付け根の傷が裂け、胴を覆う殻の隙間が開く。
反対の鋏が床へ突き立ち、体を支えた。こちらを払う鋏が止まった今、俺は開いた傷へ剣先を向ける。
さっきの一歩と、同じだ。
足を置き、腰を送る。
二度目の《穿牙》が、傷の奥まで通った。
*
動かなくなった鋏から離れ、俺は岩へ背中を預けた。
《消費配分》の強化と《収支眼》を止め、指を開く。
剣は、今度は刃こぼれしていなかった。
「通った……」
声に出したら、笑いが込み上げた。
あの日は、ただ弾かれた。遅い素振りと、何度も零した水が、この一撃に繋がった。
ユルが、討伐した場所を地図へ書き込む。
セラが皆の手を見て回り、ミナは離れた所から蟹の幅を測っていた。
「うちの鍋には、入らないね」
「脚を外しても?」
「レン。まず、持って帰れる?」
四人で、蟹を見た。
沈黙の後、俺は剣を鞘へ戻す。
「解体屋を、呼びに行きましょう」
今度は勝った後のことで、頭を抱えられる。
それが、やけに嬉しかった。




