二十八食目 返照石に映った俺
サイに本を借りてから二日後の朝、宿の裏の作業台で、俺の人差し指の横に、光の指が一本浮かんだ。
卓へ置いた透明な石の少し上で、本物の指に似た薄い輪郭が揺れている。
指を曲げる。
光の方は、曲がらなかった。
「それ、食器を片付けるのにも使える?」
背後からミナに訊かれ、光が潰れた。
「今のところ、指差す仕事なら」
「方向、変えられた?」
「これからです」
俺は本を引き寄せた。
サイから借りたロザの入門書だ。昨日はセラに術の言葉の読み方を訊きながら、水滴を皿の縁まで運ぶ練習をした。一度だけ零さず出来たのは、夕方だった。今朝は、その先の挿絵を試している。
技能欄には、昨夜増えた《魔力操作・初歩》(まりょくそうさ・しょほ)が残っている。
本にも載っている、こちらの術者が覚える名前だ。俺は《消費配分》(しょうひはいぶん)で《余熱庫》(よねつこ)のカロリーを術へ回し、《魔力操作・初歩》で魔素を扱う。この組合せだけは、どの頁にもなかった。
だからといって、毎回うまくいくわけではない。ついさっきも、水滴へ2 kcal/分を回して引こうとしたら、一滴が卓の布へ吸われた。それで今は、石の光へ練習を切り替えたところだった。
朝飯の汁を運ぶには、自分の二本の手がよさそうだ。
石の名は、返照石。
少し前に触れた魔素の形を、短い間だけ残すらしい。
本の絵では、石の上に丸い輪がある。俺の前では、指先の形をした光が、もう一度ぼんやり浮かんだ。
輪より、よほど使い道がありそうだった。
*
今日の採取は、午後の引き潮に合わせる。出発までの朝の時間、宿の主人に裏の作業台を借りてあった。
借りた卓へ布を敷き、本は木箱の上へ置く。ミナの調理台とは離した。手を増やしたい実験で、今ある手の邪魔をしてはいけない。
ユルが小さな砂時計を出し、返照石の横へ座った。
「まず、どの形から試します?」
「できれば、手の形まで」
崩れた光の輪郭を、もう一度作る。《消費配分》で、この試行へ10 kcal/分を回した。《魔力操作・初歩》を頼りに、指先から魔素を流す。
石の中で、白い光が折れる。
引き上げる。
糸みたいなものが伸び、途中からふわりと広がった。
指が三本になったところで、全部ほどけた。
「思ったより、長いです」
ユルが言う。
「手としては、足りませんけどね」
「形が残っていた時間の方です」
喜んでいいのか、少し迷った。
指先へ流れを集中させると、光は明るくなった。その代わり、外へ出たところが膨れ、指どころか形そのものが分からなくなる。
俺は《魔力操作・初歩》で、指先へ偏った魔素を輪郭へ薄く広げた。
明るさが落ちると、細い輪郭が戻った。
「こっちか」
たくさん出せばいい、という話ではないらしい。
ユルは形が現れるたび砂時計を返し、消えた時の砂の量を紙へ記した。急げとは言わず、横へ形の向きも描き添える。
俺の紙と違って、何を描いたか分かった。
*
「形だけを追わず、動かした時のことを思い出す」
セラが、開いた頁をゆっくり読んだ。
その下には、握った手と、持ち上げた椀の絵がある。
俺は自分の掌を開いた。
椀を持つ時、指の形なんて考えない。熱い縁を避け、底へ指を添え、口へ近づける。重さは指だけでなく、手首にも来る。
空の椀を借り、その動きを繰り返した。
次は、椀を置いてから同じように動く。
掌の中に、さっきの丸みが残っていた。
その感じを、石の外へ。
薄い光が、今度は根元から広がった。
指と、掌と、手首の端。
俺は息を止めた。
「そのまま」
ユルが、小声で言う。
光の指を動かそうとすると、自分の指まで曲がる。分けようと考えた途端、掌に穴が開いた。
消える。
俺は椅子の背へ寄りかかった。
「……惜しい」
「さっきまで、指が足りなかったのに」
セラが笑った。
それは、そうだった。
俺はもう一度、自分の手を見た。
さっき浮いた掌は、これより少し厚く見えた。角度のせいかもしれない。けれど椀を抱える感じを思い出す時だけ、妙にしっくりきた。
前の台所でも、熱い汁を冷ましながら、こうやって持った。
あの頃の手は、今よりずっと馴染んでいた。
「ここ、少し力が入ってる」
セラが俺の手首へ触れた。
一瞬、俺の内側を走るものとは別の、細い温かさを感じた。前に火傷を診てもらった時にも、似た感じがあった。
その温かさへ気を取られると、石の上へ作りかけていた手の輪郭が崩れた。
俺は力を抜いた。
「何か分かった?」
「自分の手だけでも、まだ難しいってことは」
セラは頷き、作業台の空の椀を調理台へ戻した。
*
「手が難しいなら、鍋は?」
ミナの提案に、俺は顔を上げた。
指を別々に曲げなくていい。その理屈には、かなり惹かれた。
丸い胴、蓋、持ち手を二つ。
返照石へ流して、少し外へ広げる。
光の端が、ぴょんと上を向いた。
胴は丸くならず、手前へ四角く伸びる。
四角い胴に、持ち手のつもりの突起が二つ。サイの所で描いた鍋の絵に、嫌になるほど似ていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……サイの所で描いた絵、よくできてたんだね」
ミナが言った。
「あの絵が、正しい鍋の形になったわけじゃありません」
鍋というより猪に見える光の塊は、蓋のつもりだった所からほどけて消えた。
ユルが紙へ写そうとしていたので、俺はそっと本で隠した。
「記録は、大事です」
「それも分かってますけど」
ミナが笑い、調理台へ戻った。
しばらくして、油の焼ける匂いが来た。
潰した白豆を混ぜた生地が、薄い鉄板の上で膨らんでいる。端の色が変わった所で返すと、こちらを向いた面に、細かな焦げ目が散っていた。
「一旦、片付けて。こっち、食べよう」
俺は本を閉じ、石から手を離した。
すぐ消える手を追いかけていて、本物の焼きたてを逃したくはなかった。
*
豆の薄焼きは、端がぱりっと割れた。
中は少しもっちりしている。噛むと豆の甘さが出て、その上に振った塩の花が、時々舌へ触れた。
ミナは自分の一枚を折り、まだ白い内側を確かめる。
「もう少し薄い方が、冷めてもいいかな」
「今のも、好きです」
「分かった。じゃあ、次も食べて」
断る理由がなかった。
セラは焦げ目の多い端を選び、ユルは記録の紙を脇へ寄せ、指を拭いてから食べ始めた。
俺は、空いた皿を光の手へ置くところを想像した。
すぐに試したくなったが、目の前の自分の手を見て、やめた。
まだ、指を曲げるだけで消えるのだ。
「持てたら、両手で鍋を運んでるときも、皿を取れますね」
「ついでに、椅子も引いてほしいな」
ミナが言う。
「まずは、空の皿を一枚ですね」
俺が言うと、ミナはその皿へ次の一枚を乗せた。
「じゃあ、それができた日の分も焼こう」
俺は頷いた。
今、持てないことより、持てた時に何を食べるかの方が楽しみになった。
*
塩花洞へ出かけたのは、その後だった。
鑑定で食べられる塩の棚が分かったので、今度は売る分も採りたい。買い足した袋と道具を分け、前と同じ四人で海岸を歩いた。
潮の引いた入口へ入ると、ユルが布の印を見た。
隣へ刻んだ、出口を指す矢印も残っている。
まず主通路から高い細道へ上り、曲がり角で空の籠を受け渡した。退路に使える幅を確かめてから主通路へ戻り、奥の採取棚へ向かう。俺は狭い所だけ脚を支え、棚では採る人の横で籠を持った。
透明な粒は、塩の袋へ混ぜない。
ミナが採った潮葉も、別の布へ包む。
道具を片付ける頃には、肩が張り、腕を上げるのがつらくなっていた。午前の魔法の練習に続いて、採取の籠も支えっぱなしだったのだ。
俺は荷を置き、水を飲んだ。
頭の中では、まだ薄い手が椀を持とうとしていた。
急がなくてもいい。
今日できた形は、昨日にはなかった。
「レン」
先の曲がり角で、ユルが止まった。
声の低さで、俺も鞄を下ろした。
採取棚から低い入口へ戻る主通路が、青白い結晶で塞がれている。
俺たちの立つ分岐には、左へ上る高い細道もあった。前に籠を通した、岬へ抜ける退路だ。
来る時にはなかった、大きな塊だった。
壁ではない。
下から、鋏が出た。
鍋の蓋より大きな先端が、岩へ触れる。乾いた音がして、白い欠片が床へ落ちた。
俺は手を上げ、後ろから来たミナとセラを止めた。ユルには、高い細道の入口へ下がってもらう。
薄い光の手を思い浮かべていた右手が、今度は剣の柄を握る。
奥で、別の鋏も動いた。
小蟹を十匹並べても、あの幅には届かない。
セラが俺の肘へ指を当て、高い細道の方を示した。
俺は頷いた。
まず、全員で外へ戻る。
結晶の下で、いくつもの脚が、同じ向きへ動き始めた。




