二十六色目 歩く岩には、網をかぶせろ
朝、岩がいなくなっていた。
代わりに白い床へ、櫛で掻いたような筋が残っている。
昨夜は皆を起こして周りを確かめた。近寄ってこなかったので、寝床の前へ板を一枚立て、交替の見張りを続けたのだ。
「これ、脚の跡です」
ユルが、筋の横へ屈んだ。
俺も隣へ屈み、白い筋を覗いた。
寝床の荷をまとめてから、灯りを持って四人で跡を追った。寝床から主通路へ下りた曲がり角に、椀へ収まりそうな石が五つ止まっている。
一つが動く。
石の下から、平たい鋏が出た。
「蟹だ」
俺の声に、ミナがぱっと顔を上げた。
「石背蟹! その殻なら、小屋で見た。出汁がうまいって」
朝飯の前に聞くには、とてもいい話だった。
俺は《収支眼》(しゅうしがん)へ1 kcal/分を回した。
殻の隙間から見える脚に、小さな流れが浮く。止まると、岩の陰へほとんど消えてしまう。
これを数字だけで探していたら、昨夜も見逃していただろう。
床の筋は、もっと奥へ続いていた。
*
蟹が横を向くと、俺も横へ回った。
すると、もう一匹がこちらへ来る。
剣を振れば、殻ごと叩けるだろう。けれどミナが言った、出汁のうまい殻を、床へ撒き散らしたくはなかった。
柄付きの網を構える。丸い木枠へ袋状の網を張った、魚を掬うための道具だ。
その前を、石背蟹が横切った。
速い。
俺が追うより先に、ミナが長い棒を床へ置いた。
先へ、毛羽立った灰色の葉が巻いてある。
「こっち、嫌いみたい」
蟹が鋏を引っ込め、反対へ向いた。
「その草は?」
「町で支度した日に、小屋の人が道具箱へ入れてた鼠避けと同じ葉。食べる方じゃないよ」
鼻の奥が、つんとした。
保存食の袋へ鼠を寄せないよう、小屋で分けてもらった葉だ。セラにも確かめ、食材とは別に持ってきていた。ミナが棒を少し動かすと、近くの蟹がまた横へ逃げた。
ユルが通路の右端の平石を指した。左から匂いを送れば、蟹はそこへ逃げる。
「レンは右で待って。後ろの寝床への道は空けます」
セラはその後ろで、籠を開いた。
俺は、もう一度網を持った。
*
今度は、追わなかった。
《消費配分》(しょうひはいぶん)で脚と体幹を固め、低く網を張る。《収支眼》の1 kcal/分を残し、身体強化に使うのは合計19 kcal/分。
ミナが通路の左から棒を寄せる。俺は右の平石の手前へ網の口を伏せ、縁を床すれすれに傾けた。匂いを避けた三匹が、開いた口へ走り込む。
膝を曲げたまま腕へ回す。
柄を起こす。三つの殻が網の底へ転がった。
鋏が網目を噛んだが、腕は引かれなかった。俺は後ろのセラが差し出す籠の上へ網を運び、口を伏せて落とした。
「次、奥の岩の陰!」
ユルの声で、顔だけを向ける。
奥から出た一匹が同じ平石へ走る。俺は空いた網を元の位置へ下ろし、そのまま迎えた。今度は足を動かす必要もなかった。
殻が鳴った。
セラが籠の蓋を押さえ、俺が次を掬う。
網を返しながら、次の蟹の脚が向く先も見ておける。《収支眼》と脚の強化を続けても、腕にちゃんと余裕があった。
先に通路を塞いでいた五匹は、すぐに籠へ入った。
「……もう通れますね」
「道も空いたし、蟹は朝ご飯にできるね」
ミナが答えた。
俺は空いた道を見る。
大釜蛙の時には、あんなに足場を作り、逃げ、戻った。相手が違うから比べすぎてはいけないのだろう。それでも今は、落ち着いて次の一匹を待てる。
好きな物を食べるための手順が、少し上手くなっていた。
奥の採取棚へ進みながら、さらに五匹だけ獲った。籠が重くなった所で、ミナが蓋へ手を置く。
「今日は、そこまで」
「まだいますよ」
「鍋は一つだよ。これ以上獲っても、今日中に料理できない」
俺は、背中の鍋を見た。
朝は十分だと思ったのに、もう少し大きい物を借りてくればよかった。
*
道の奥の採取棚へ着き、白い結晶を少し採った。
薄い花びらのような部分と、岩へくっついた塊は、袋を分ける。ユルが場所を写し、俺は棚へ手を掛けず、落ちた物だけを拾った。
採取棚から寝床へ戻る途中、高い出口へ上る分かれ道をもう一度確かめた。小さな籠なら、先に上った相手へ渡せる。ユルは昨日確かめた出口まで歩き、今度は籠を通す幅も測った。
地図に、戻れる線が一つ増えた。
高い寝床の棚へ戻り、通路を見る者と料理をする者を交代すると決めて鍋を出した。
小屋で聞いてきた手順で、ミナが食べる部分を分ける。俺も水を汲む代わりに、持参した残りを運んだ。潮溜まりの水を、そのまま汁にするわけにはいかない。
俺が蟹を鍋へ並べると、蓋が閉じなくなった。最後の一匹は、縁へ乗り上げている。
「五匹ずつね」
「一度に全部は、無理ですね」
半分を別の皿へ戻す。
ミナは、初めから二回分の葉の器を並べていた。
*
殻が赤くなり、湯気の匂いが変わった。
魚を焼いた匂いとも、肉を煮た匂いとも違う。蓋を開けると、磯の香りが温かくなって、岩の冷たい空気を押し返した。
鋏の根元を割る。
小さな白い身を抜き、口へ入れた。
甘かった。
身は細いのに、噛むとしっかり歯を押し返す。その一瞬の後、ほろりと分かれ、舌へ柔らかい塩気が残った。
「ああ」
ほかに言葉が出なかった。
ミナが笑い、鍋から汁を注ぐ。
そこへパンを浸した。
端が柔らかくなるのを待ち、一口。
身を食べ終えたはずなのに、パンからも蟹の味がした。
殻の香りまでパンへ移っている。冷たい岩に座り、熱い椀を持っているせいか、いつまでも湯気を嗅いでいたくなった。
「次、俺も割っていいですか」
ユルが、まだ割っていない蟹の鋏を手に取った。
「自分の分なら」
ミナが言うと、彼は測り紐をしまった。
俺たちはしばらく、同じ音を立てて殻を割った。
二回目を茹でようとすると、ミナが空いた殻を鍋底へ戻した。
「こっちは、蒸してみる」
水を浅く残し、殻の上へ潮葉を敷く。その上に新しい蟹を並べると、蓋が今度はちゃんと閉じた。
待つ間、彼女は最初の汁を何度も味見した。
俺が椀を差し出すと、嬉しそうに続きを注ぐ。
「今のは、塩を足す前に飲んで」
少し濃くなっていた。さっきは殻の匂いだと思ったものが、舌の上では甘い。ミナが葉を一つ摘み、噛んでから首を傾ける。
「この葉、身と一緒だと、強すぎるかな」
料理人も、すぐ答えを知っているわけではないらしい。
蒸し上がった蟹を割ると、今度は白い身に、青い葉の香りがうっすら残った。茹でたものより、身の甘さが濃い。小さい鋏の中に、ぎゅっと甘さが詰まっている。
同じ蟹から、違う味が出てくる。
「鍋を二回にして、よかったです」
「でしょ」
ミナは得意そうに笑い、それから自分の蟹も、冷めないうちに割り始めた。
セラはパンの焦げた端を汁へ沈め、最後まで黙って噛んでいた。
*
食べ終えて火を消し、分かれ道から高い細道へ上った。空になった籠をユルへ渡し、次に俺が続く。低い入口にはもう潮が来ていたが、確かめておいた道で岬へ出られた。
帰り道は、籠が空になった分だけ歩きやすかった。
その代わりに塩の試料がある。白い物をこぼさないよう、袋の口をもう一度結んだ。
日が傾く頃、サルナの屋根が見えた。
店を閉め始めた通りで、ユルが、休養日を挟んだ朝に見てもらえる鑑定先を確かめに行く。俺は待つ間、試料の入った袋を一つ持ち上げた。
透明な粒が、塩の中へ混ざっている。
布越しに押さえて離すと、その粒に、指先に似た淡い光の輪郭が残った。
「ミナ。これ、塩ですかね」
彼女は袋を覗き、袋の口を閉じるよう俺へ合図した。
「鑑定してもらうまで、舐めるのは待とう」
俺は頷いた。
粒に残った光は、その間にも、ゆっくり消えていった。




