二十五食目 引き返すための目印
洞窟へ持っていく物は、鍋だけでは済まなかった。
飲み水、乾いた薪、灯り、替えの布。柄付きの丸い網と、小さな採取用の刃。海岸を調べた翌日を、丸一日支度に使った。借りた薄板を鞄の外へ括り、さらに一晩眠って迎えた出発の朝だ。荷は、最初に海を見に行った日より増えている。
「食料なら、今食べて荷を軽くできるんですけど」
「明日食べる分は、明日まで残して」
ミナはそう言って、自分の袋へパンを移した。
採取棚が乾く翌朝の引き潮に合わせ、高い棚で一泊する計画だった。ユルが潮の時刻を確かめ、俺たちは前に見つけた石段から低い入口へ下りた。今日は壁の下半分まで乾いている。磯の匂いへ、冷えた石の匂いが混ざった。
入口のそばには、古い杭があった。
俺がそこへ布を結ぼうとすると、ユルが待って、と手を出した。
「その杭、外から来たら見えます。でも、戻る時は岩の裏です」
中へ回ってみる。
本当だった。
岩に隠れる杭はやめ、洞内からも見える柱状の岩へ布を結び直した。すぐ横へ、出口を指す矢印も刻む。布が落ちても、こちらは残る。
「先の印が見つからなくなったら?」
「最後に確かめた印の所へ戻って、皆で道を確かめよう。一人で探しに行かないでね」
セラが答えた。
ユルが頷き、地図へ同じ印を写した。
引き返すときに迷わないよう、全員で矢印の位置を確かめた。
*
床は、平らではなかった。
低い所に水が残り、白い粉の浮いた所ほど滑る。《消費配分》(しょうひはいぶん)で脚と腰、腕を支え、《収支眼》(しゅうしがん)と合わせて10 kcal/分。岩間を走る虫を避け、乾いた場所まで一人ずつ進んだ。大きな荷をいったんまとめて置き、寝床にできる棚を探す。
鍋の蓋が鳴る。
誰も何も言わなかったが、俺は黙って歩幅を小さくした。
奥で、天井が急に高くなる。
入口から進むと、主通路の右へ上る細道が分かれ、その先の岩棚に、火を焚いた跡があった。黒い煤と、割れた土器。壁へ古い採塩人の印が刻まれている。
「ここなら、泊まれそうです」
ユルが声を弾ませた。
俺もほっとして、荷を下ろしかけた。
セラは、壁に残る線を見ていた。
「あの色、何だろう」
棚の奥の壁に、薄茶色の筋が横に続いている。
俺は近づき、指で筋をなぞった。今立っている棚の床から、膝ほどの高さだ。水の跡なら、この寝床まで浸かったことになる。
ユルが測り棒と紐で段差を確かめ、入口の印から測った高さを地図へ書き足した。彼の口が細くなる。
「古い図の満潮より、高い」
「雨や風でも、変わるんだよね」
セラに訊かれ、ユルは頷いた。
「今日は穏やかです。でも、ここまで来たことがあるなら、そこを基準にした方が」
言いながら、彼は予定していた進路の線へ、短い横線を引いた。
低い入口を使える時刻を書き直し、別の出口を確かめてから泊まると決めた。
俺たちは煤の残る棚の、さらに一段上へ登った。毛布を四枚広げられる広さがあり、水の跡も足の下だ。今夜の寝床にする前に、ユルと俺で脇の裂け目を確かめた。
人が一列で通ると、岬の上の岩棚へ出られた。潮が上がって低い入口を使えなくても、こちらからなら外へ戻れる。大きな荷物は難しいが、皆と荷を分ければ通れそうだ。
ユルが、その幅も地図へ残した。
高い裂け目から寝床へ戻り、さらに低い主通路まで下りた。入口へ続く床には、水が細く入り始めていた。
俺は入口の布の印まで歩いた。まだ靴の底も濡れない。だが、同じ所を帰るつもりで見直すと、足を置ける岩がさっきより一つ少なかった。
ユルに声をかける。
彼は灯りを床へ下げ、セラは水の筋の横へ、小さな石を三つ並べた。
「水がこの石へ触れたら、荷運びも終わり。この低い床には下りず、上の寝床へ戻ろう」
全員で同じ場所を見る。
俺は、先ほどまで運んでいた飲み水を高い棚へ移し直した。道具を一つ取りに下りる間に潮が変わったら、今度はそれを取りに行きたくなる。
先に上へ揃えておけば、迷わずに済む。
最後の袋を下ろすと、背中がずいぶん軽くなった。夕飯の前に、寝る場所まで運び終えられたのが、少し嬉しかった。
*
俺は一番高い所へ、食材の袋を置いた。
次に飲み水。
それから毛布を広げようとして、置く場所がなくなった。
「……寝床が、減りました」
ミナが袋を持ち上げる。
「食材の袋は、寝返りを打たないからね」
岩の横の狭い棚へ、食材を寄せた。さらに紐で留め、落ちないことを確かめる。
俺の毛布が、その下へ収まった。
「上からパンが降ってきたら」
「袋が落ちたって、すぐ分かる」
便利なようで、そうでもなかった。
セラが毛布を触ってみて、下へ乾いた板を挟んだ。表面は乾いて見えた岩にも、しばらく置くと布へ湿り気が来るらしい。
俺は板をもう一枚運び、ユルの分も敷いた。
彼は新しい地図を膝に広げたまま、こくりと頭を揺らしていた。
「眠るなら、地図は畳んでおきませんか」
「寝ません。まだ書くことが」
「じゃあ、先に食べません?」
その誘いには、彼も筆を止めた。
*
寝床の端、高い裂け目へ風が抜ける側で火を焚いた。
煙が奥へ溜まらないのを確かめ、持ってきた薪を少しずつ入れる。水を注いだ鍋へ干し肉を裂いて落とすと、石ばかりの景色へ急に台所の匂いがした。
ミナは、細い葉を一枚見せた。
今日、途中の岩場で少し採った潮葉だった。昨日は採塩小屋で見本を見せてもらい、葉の裏や折った茎の色、採っていい場所を確かめてきたという。
彼女は葉を拭き、ほんの端を切った。
「塩を、今日はまだ足さないで」
鍋へ落とす。
煮立つ手前で、青い香りが湯気へ乗った。
一口、飲む。
最初は薄いと思った。だが、干し肉を噛んだ後に汁を飲むと、舌の端へ柔らかい塩気が残る。葉そのものは少し厚く、噛むと海藻に似た匂いが抜けた。
「おいしい?」
ミナが訊く。
「パンを、もう少し浸したい味です」
彼女の顔が明るくなった。
「じゃあ、最後の一口は、葉も一緒に食べてみて」
俺は言われた通り、葉と一緒にパンを食べた。
汁を吸ったパンと葉を一緒に噛むと、さっきより青い香りがはっきりした。
ユルも黙って食べていた。匙を置いてから、地図の空いた隅へ、何か書く。
「味まで測るんですか」
「ここ、水を持ってこないと泊まれないので。その近くに、食べられる葉もあると」
俺は、彼の地図を覗いた。
最初は道の線だけだった紙に、火を焚ける場所が増えていた。人が寝られる棚も、濡れる床も、さっき鍋を囲んだ場所も、印で描き分けられている。
「その地図、俺も欲しいです」
ユルは顔を上げ、小さく頷いた。
*
灯りを落とすと、水の音が大きくなった。
潮は、俺たちが鍋を洗っている間にも上がっていた。岩へ当たる音が、昼より近い。
最初の見張りは俺だ。棚の端へ座り、低い通路と、高い出口へ続く裂け目を交互に見た。
《消費配分》で思考の加速へ1 kcal/分を回すと、一つ一つの音を追いやすくなる。どの岩で反響したか考える余裕もあった。
しばらく聴いても、波と風以外の音はしなかった。
俺は思考への配分を止め、横に置いた水を飲んだ。
セラが毛布から顔を出した。
「考え事?」
「見張りの交替まで、何か考えようかと」
「明日の朝ご飯は?」
「それなら、もう考えました」
「じゃあ、一つ終わってる」
言って、また目を閉じる。
俺も笑い、静かに座り直した。
焚き火の明るさが消えると、採取棚へ続く奥は真っ黒だった。確かめに下りる気はない。手元の灯りを寝床へ上がる段へ向け、そこへ何か近づかないかを見た。
岩を擦るような音がした。
俺は灯りを持ち直した。
寝床から主通路へ下りる段の先に、掌ほどの丸い石が一つある。
荷を運んだとき、あそこを通った。
石なんて、あっただろうか。
俺は剣を引き寄せ、寝床との間へ灯りを置いた。
丸い石の下で、細いものが、一度だけ動いた。




