二十四食目 父の地図にはない道
「そこ、崖です」
翌朝、橋を渡って対岸の待合へ行った。待ち合わせた卓でパンへ手を伸ばすと、案内人の声に止められた。
昨日頼んだ案内人は、俺より少し年下に見える少年だった。濃い栗色の髪が片側だけ跳ね、襟元に測り紐を巻いている。ほっそりした顔に明るい茶色の目。人形のように整った顔立ちなのに、口元にはパン屑が一つ付いていた。
彼はミナのパンを岬の形に並べて説明を始めたばかりで、俺はその崖になる部分を食べようとしていた。
「この高い部分が岬。そこを越えると、元の道へ出られます」
半分に割ったパンを重ねて見せる。
なるほど、よく分かる。
「それ、私が焼いてもらった分なんだけど」
ミナの声で、少年の手も止まった。
「あ」
「説明に使うのはいいけど、そのパンはあとでちゃんと食べてね」
少年はパンを戻そうとし、もう一度止まった。どこを触ったのか確かめる顔になる。
俺は自分の包みを開き、空いた布を卓へ広げた。
「こっちへ、小石を置きませんか。崖も食べられますし」
「食べるのは、こっちですね」
彼はパンを持ち直した。
小さいひとかけらを口へ入れ、よく噛んでから名を告げる。
「ユル・フェンです。塩花洞へは、父の図があります」
鞄から取り出した地図は、角が布で補強されていた。薄い紙を何度も折った跡に、細かな字が重なっている。
俺も名乗り、セラとミナを紹介した。
「今の海岸も、全部見てあるんですか」
「入口の岬までは。崩れた先は、今日、測ります」
ユルはそこだけ、少しゆっくり答えた。
「《測量基礎》(そくりょうきそ)と《製図基礎》(せいずきそ)はあります。でも、測っていない場所までは分かりません」
そう言って、まだ線のない所へ指を置いた。スキルの名も、出来ないことも、彼が自分から話してくれたのがよかった。
今日は入口までの下見にして、奥へ入る道具は現地を見てから揃える。案内の代金と、途中で引き返した場合のことも決めた。彼は曖昧に頷かず、行ける所までを地図へ指でなぞった。
その指の下では、道が一本の線になっていた。
*
対岸の待合を出て、川沿いを下流へ歩いた。川口まで来ると、川を背にして海沿いの道へ曲がる。その先が塩花洞へ続く海岸だった。
朝飯の豆の汁とは、まるで違う匂いだった。
潮の匂いがする。
風に混じる湿った冷たさが唇へ触れ、舐めるとほんの少し塩辛い。白い鳥が岸の上を飛び、波の向こうに小さな帆が見えた。
ミナは、石の隙間から生えた葉を見ていた。
「それ、潮葉?」
「似てるけど、これは違う。採塩小屋で教わった潮葉は、根の色がもっと濃いんです」
ユルが答え、地図の端へ短い印を付ける。
俺が食べられるか訊く前に、見分ける目印を教えてくれた。塩だけでなく、葉も土産に出来そうだった。
岬の手前で、道が細くなった。
ユルが先に通り、俺が荷を受ける。ミナの鍋を岩へ当てないように持ち替えると、背中から蓋が小さく鳴った。
「そこ、気をつけてね。鍋」
「俺も、そこにいます」
「両方」
彼女の返事に、セラが後ろで笑った。
《消費配分》(しょうひはいぶん)で脚と体幹、腕を強めた。岩場の小さな生き物を見落とさないよう、《収支眼》(しゅうしがん)も使う。合わせて6 kcal/分。靴底が岩へ落ち着くと、受け渡す荷の揺れも小さくなる。ただ、急ぐと肩の鍋が先へ出る。俺は一歩ずつ進んだ。
岬の向こうで、ユルが止まっていた。
地図を開き、海岸を見て、また地図へ戻る。
しばらく、波の音だけがした。
「道は、もう少し下です」
彼が言った。
紙の上には、岩の棚へ続く細い線がある。だが、その先で本物の岩は途切れていた。
*
「父の図なら、この高さに歩ける棚があるんです」
ユルは紐を出し、地図の距離を測った。
俺も下を見た。
波が引くと、平らな岩が少し現れる。端に張り付いていた小さな蟹が、割れ目へ横歩きで入った。
《収支眼》で、その背中の流れを追う。
岩の下を透かせるわけではない。見えるのは、蟹が脚を動かすところまでだ。
けれど、蟹のいた場所に、次の波が来た。
さっきより高い。
「ユル。先へ下りるの、待ってください」
彼の靴が止まった。
岩の継ぎ目から水が噴き、足を置こうとした窪みを洗った。引いた後にも、細い泡が残る。
「今のは……」
「下で、波がぶつかってます」
俺はしゃがんで耳を寄せた。見えている白い波より遅れて、岩の下で重い音がする。
ユルは地図を握ったまま、膝を曲げた。
紙の線と、本物の岸を、指で行き来する。
「ここにあった張り出しが、ない」
声が小さくなった。
「あれが波を切っていたから、この道で……」
言葉が途切れる。
ミナが数歩後ろの、広い岩棚を指した。
「いったん荷物を下ろそう。お昼を食べながら、別の道を考えない?」
ユルが顔を上げる。
「この高さなら、満ちても来ません。少なくとも、今見えてる水の跡より上です」
「そこも、見てからにしよう」
セラは荷物を下ろす前に、岩の奥を覗いた。
ユルも立ち、歩いて確かめた。
今度は地図を見る前に、実際の岩場と水の跡を確かめていた。
*
弁当を食べた後、俺は測り紐の端を持った。《収支眼》は休め、《消費配分》で姿勢を保つ方と、計測を追う思考へ合わせて5 kcal/分を回す。
ユルが向こうの石へ印を付ける。
俺は岩へ刻んだ印の高さで、紐の端を押さえた。ユルが反対側を水平に張り、その下の段まで目盛り付きの棒を下ろす。手が上下すれば、高さの読みまで変わってしまう。鍋より軽いのに、妙に集中した。
「もう少し、下へ」
言われた通りにすると、ユルの声が早くなった。
「ここを基準にすれば、あの段の高さが出ます。古い線から引くとずれるので、この岩棚の、海側の角から取り直して――すみません、今は、そのままで」
「最後の所は、分かりました」
ミナが布の上へ小石を置く。
崖と、波の当たる場所と、今いる高い棚。俺たちが歩いた所だけが、少しずつ形になった。
ユルは新しい線を別紙へ描き、元の地図の端へ、小さく字を足した。
現地、崩落。通行不可。
書く前に、一度だけ筆先を止めた。
「ここは、描き直すんですね」
俺が言うと、ユルは頷いた。
「見た時は、正しかったんです」
「はい」
「でも、今は」
波が岩を洗った。
ユルは、その音を聞いてから書き終えた。
「こっちも、眼があれば全部分かるわけじゃありません。さっきの水の音は、普通に聞きました」
俺が言うと、彼は初めて少し笑った。
「測り紐も、見えない所へは届きません」
似たような道具を持っていたのかもしれない。
*
午後、潮が引き、さっきまで波に隠れていた岩が少しずつ現れた。
崩れた低い道へは下りず、俺たちは高い岩棚を岬の裏まで測っていった。そこで、別の石段が海へ下りているのを見つけた。
岬の下に、朝はなかった黒い筋が現れる。ユルが高い所から覗き、俺へ手を上げた。
石段を下りた先に、低い洞窟の入口があった。
岩の奥へ、白く塩の浮いた床が続いている。
今度はすぐに入らず、手前の岩へ目印を付けた。ユルが水の高さを写し、セラが入口を吹き抜ける風を確かめる。
俺は、一歩だけ中へ入った。
光が届くところに、小さな白い結晶がある。
指を伸ばすと、ユルが俺の袖を引いた。
「持って帰る分は、場所を決めてからです。混ざると、後で分からなくなります」
「食べる分も?」
「まず、何か確かめてから」
俺は手を戻した。
白い物が全部、うまい塩とは限らないのだ。
今日は道を写して戻り、明日は道具を揃える。奥へ入るのは、その次の潮に合わせることになった。
帰りの岬で、ユルが財布へ手を掛けた。
「予定の道を通せなかった分、今日の案内料は減らします」
俺は新しく描かれた線を見て、首を振った。
「約束どおり払います。新しい入口を見つけてくれたんですから。次も案内を頼みたいです」
ユルの目が、俺から地図へ戻った。
「道が違ったら、また測れますよね」
「……はい」
今度の返事は、朝よりはっきりしていた。
俺は手を差し出し、紐を握っていた彼の手と合わせた。
まだ塩は一粒も持っていない。
それでも帰り道では、新しい入口と、明後日の鍋のことを相談できた。




