二十一食目 食べたはずの獣
その獣は、餌を食べていた。
約束した翌朝、解体場の裏へ行くと、檻の中で小さな口が動いていた。枝葉を噛み、嚥下する。肋骨の浮いた体に、腹だけが重たそうに垂れている。
「昨日も、その前も食ってる。飼い主が言うには、急に痩せたそうだ」
解体場の男は、檻へ手を近づけなかった。
途中まで一緒に来たセラは、馬の世話係に呼ばれ、隣の繋ぎ場へ回っていた。
シマ角獣という、普段は荷を引かせる魔物らしい。家畜にできるほど穏やかなのだが、今は耳を伏せ、近づく者へ角を向けていた。
「ここは生きた家畜の検分もする。肉にしていい状態かも分からんから、先に獣医を呼んだんだ。昨夜言ってた鼠の絵、持ってきたか」
俺は頷き、鞄から紙を出した。
ヨハンの穀倉で見た黒い棘を、その夜、自分の手帳へ描いたものだ。原因が分かったわけではないので、見えた位置と流れだけを書き添えてある。
紙に描いた鼠の棘と、目の前の獣の棘は、形がよく似ていた。
檻の外から、《収支眼》(しゅうしがん)へ1 kcal/分を回した。
獣の首や脚には、細い流れが見えた。餌を噛むたび、顎の辺りが少し強くなる。だが、背の棘へ寄る流れだけは、噛んでも、やめても、同じように続いていた。
明るくなり、細くなって、根元へ消える。
俺は檻の横へ回った。見える範囲が変わると、棘の影も変わる。体の中まで見通せるわけではなかった。
「分かるか?」
「ここへ、力が寄ってるようには見えます。でも、抜けば治るかは分かりません」
男の手が、腰の鉗子へ伸びかけて止まった。
「分かった。獣医が来てからにする」
俺も《収支眼》を止め、檻から一歩離れた。
枝葉を噛む音だけが残った。
檻の脇には、飼い主も来ていた。解体場の男が道具を取りに離れても、この人は獣から目を離さなかった。
飼い主が握る縄には、同じ所を何度も擦った跡があった。荷を引くとき、この獣と毎日使っているのだろう。
「あんたの目で、治るかどうかも見えないか」
飼い主に、小さな声で訊かれた。
俺は首を振った。
「今、どこへ力を使ってるか。それも、外から見える分だけです」
飼い主は縄を握り直した。
ここへ来るまで、俺も餌を食べているなら大丈夫だと思いたかった。毎朝この獣を連れ出していた人なら、なおさらだろう。
檻の前へ、水の桶を置く。
桶には引き戻すための縄を結び、板で押して檻の中へ滑らせた。手は柵の外に置いたまま、縄の端を足もとへ残す。しばらくすると、黒ずんだ鼻先が桶へ触れた。
「名前は?」
「シオ。荷台の塩を舐めたから」
俺は、水を飲む獣を見た。
シオ、と心の中で呼んでみる。名前を聞く前より、この獣のことが気にかかった。
*
セラは、隣の繋ぎ場にいた。
商隊の馬が一頭、朝の飼葉を残したという。昨日の獣を見て、すぐ同じ病気ではないかと騒ぎになったらしい。
彼女は桶の水を替え、馬の鼻先へ掌を差し出した。
「昨夜、いつもの場所で寝た?」
世話係に訊く。
「昨日は、初めてここへ。隣の獣が暴れて、それで」
「脚に熱はない。まず静かな所へ移して、食べ方を見よう」
馬は水を飲み、桶の縁を鼻で押した。
それだけの動きで、世話係の肩が落ちた。
俺は黒い棘の話をした。セラは、紙と檻の方を交互に見たが、馬へ同じ処置をしようとはしなかった。
「似てるから、同じ、とは決められないね」
「あっちも、食べてはいるんです」
「それなら余計、食べ方以外も見たい」
セラは獣医への伝言を世話係に頼み、馬を静かな繋ぎ場へ移すのを手伝った。様子が落ち着いたのを確かめると、薬の仕入れへ向かった。
俺は検分場に残り、獣医を待つ間、解体場の人たちと水桶や餌台を入れ替えた。布や道具を揃えるうちに、日が高くなってきた。獣のいた場所から、普段使う餌の桶や道具を分ける。《消費配分》(しょうひはいぶん)で腕と脚、体幹へ合計4 kcal/分を回し、重い台を移して檻の周りを空けた。診る人が来たとき、すぐ背へ回れるようにするためだ。
獣へ近づくと、角がこちらを向く。
柵の隙間から角の先が出た。俺は檻の外で餌台の板を立て、飼い主との間へ挟む。《収支眼》と、腕と脚、防御への配分を合わせて12 kcal/分。角の向きを見ながら、板を持ったまま飼い主と一緒に下がった。届かない所まで離れると、獣はようやく頭を戻した。
何かしてやりたくても、棘を抜いていいのかさえ分からない。板を下ろし、獣医を待った。
獣医が来たのは、昼前だった。
紙を渡し、棘へ寄る流れの見え方だけを説明する。餌を食べた時刻と量は、飼い主が伝えた。俺の見た物より、そちらを先に詳しく訊かれた。
餌をどれだけ食べたかも、診るために必要な記録らしい。俺は説明を止め、飼い主の話を一緒に聞いた。
獣医は紙の絵を写し取り、棘の見える側へ灯りを置いた。
すぐに抜くとは言わなかった。棘の周りの皮膚を診て、飼い主へ、これが生える前の体毛の色まで訊いている。
俺の出番はそこで終わった。
戸口で振り向くと、飼い主はもう椅子を借りていた。縄を膝に置き、シオの耳の動きを見ている。
帰り際、解体場の男が手を上げた。
「紙の写し、レドの方にも回す。自分で戻らなくていいぞ」
俺は、その一言にも礼を言った。
写しは町の連絡便で届けてくれるという。塩探しを中断して、俺がレドへ戻らなくてもよかった。
*
「今日は肉、食べない?」
屋台へ戻ると、ミナに訊かれた。
俺は鍋を見た。
「その肉は、どこから?」
「昨日と同じ市場の肉屋だよ。あの獣を料理したんじゃないからね」
「じゃあ、食べます」
「よかった。レンが肉を断つ日になったら、私、仕込みを考え直さないと」
ミナが椀を置いた。
白い豆と、細く裂いた肉。上へ刻んだ青い葉が散っている。黒い棘のことを考えていた鼻へ、先に爽やかな香りが入った。
一口飲む。
豆は端が少し崩れ、汁にとろみを付けていた。肉の細い繊維が舌へ残り、噛むと塩気が戻ってくる。
昨日の汁とは、また違う。
「葉、最後に入れたんですね」
「うん。煮すぎると、香りが飛ぶから」
セラが隣へ座り、自分の分を受け取った。
「薬の仕入れは、どうでした?」
「注文は済んだよ。午後に集配所で受け取る分を待つだけ。レンの方は?」
「棘の絵と、見えたことのメモを獣医に渡しました」
「じゃあ、こっちを食べよう」
俺は匙を動かした。
さっきの獣が、明日には少しでも落ち着くといいと思った。だが、俺が夕飯までずっと餌の音を思い出していても、治療ができるわけではない。
ミナの鍋は、今、うまい。
温かいうちに食べると、彼女も嬉しそうだった。
椀を空け、塩花洞へ行く道を訊いた。
ミナ自身は洞窟へ入ったことがない。ただ、屋台へ来た採塩人から、海岸まで長く歩くことや、手の傷へ塩がしみることは聞いていた。
「じゃあ、厚い手袋がいりますね」
「あと、足。けっこう歩く」
「それは持って来ました」
「増やせない方だね」
彼女が言い、俺は自分の二本の脚を見た。
手も、脚も、今はこれだけだ。
それでも、一緒に歩ける人は増えていた。
*
食事のあと、セラは薬を受け取るため先に集配所へ向かった。俺とミナは屋台を片付けてから追いついた。そこでオルンの知り合いが、息を切らして入ってきた。
「あの橋、渡れなくなったぞ」
塩花洞へ続く、川の橋だった。
上流で流れた木が掛かり、古い橋桁が落ちたらしい。塩を運ぶ荷車も、対岸へ止まったままだという。
「舟は?」
「人だけなら渡せる。荷車まではな」
セラが、今受け取ったばかりの薬包へ目を落とした。
対岸へ回す予定の分が、そこにあった。
「薬は舟で届けられるね」
セラが舟の出る時刻を訊く。俺も、それで向こう岸へ渡れると思った。
「橋守が、明日の材運びを探してる。日当も出るぞ」
男の言葉に、俺は腰の財布へ触れた。洞窟へ持っていく道具代も要る。荷を運ぶ仕事なら、街道で何度も手伝った。
「俺でも手伝えますか」
「朝、渡し場へ来てくれ。何を頼むかは、橋守と決めな」
隣で話を聞いていたミナが、俺へ顔を向けた。
「弁当、何を入れる?」
「肉入りの麦餅を、できれば多めに」
答えてから、明日の仕事の話より弁当の相談が先になったことに気づいた。ミナは笑って頷いた。




