十八食目 旅の料理人は勘定が苦手
翌朝、出発が午後なのを確かめてから、セラと道向かいの屋台へ行った。
朝の鉄板から、昨夜逃した匂いがする。
「ごめん、この屋台を動かすの、手伝ってもらえる?」
赤茶色の髪を布でまとめた女が、屋台の下を指した。琥珀色の目がこちらを見ている。明るい顔立ちの美人で、前掛けの上へ捲った袖から、よく働く腕が覗いていた。
二輪の荷車へ焼き台と食材箱を載せた、小さな店だった。片側の車輪が車軸の端までずれている。
「焼いてる場合ですか」
「動かないから、焼いてるの」
女は笑い、肉を返した。
いい焼き目だった。助ける前から、礼に何を頼むか決まりそうだ。
「ミナ。料理人。性格は車輪を、見ての通り」
「レンです。料理は、匂いでかなり分かりました」
「じゃあ、直るまでは匂いで待てる?」
それは、難しかった。
*
ダンに声をかけて車軸を見てもらい、先に重い鉄板と食材箱を下ろした。
抜け止めの木の楔が緩んでいるという。
俺は《消費配分》(しょうひはいぶん)を腕と脚と胴へ、合計10 kcal/分。梁へ肩を入れた。
「台、入ります」
ダンが下へ木の台を差し込み、俺はそこへ重さを預けた。
支え続ける必要がなくなると、二人で車輪を戻せる。
応急の楔を打ち、停車場奥の車大工へ運ぶ段取りも決めた。職人は昼に戻るので、午後の出発前に留め直してもらう。
セラが軒へ寄せた箱から、油の瓶が出てきた。
「この瓶、ずいぶん立派だね」
「気をつけて! そこ、いちばんいい脂!」
「車輪のお礼より先に返事が来ましたね」
「車輪は、舐めてもおいしくないでしょ」
それは、確かにそうだった。
修理と運ぶ手伝いのお礼に、ミナが食事を作ってくれることになった。
彼女は地面へ焼き台を据え直した。
まず朝の分を食べて、と言われて、俺は素直に座った。
*
肉の端が、狐色というより濃い茶色になっていた。
硬そうだと思った。
噛むと、最初に薄い膜が割れた。そのすぐ下へ歯が入る。肉汁は鉄板へ流れず、噛んだ所からじわりと舌へ広がった。
塩が効いている。
表面だけでなく、中の甘い脂にも、かすかに塩気がある。
「……中まで、うまい」
「昨夜から休ませたの。今朝焼く分だけ、薄く塩して」
ミナは、俺の皿を見ていた。
次の肉を鉄板へ置く手が、少し軽くなる。
「その酸っぱい実、知ってる?」
「村で教わりました。肉を漬けると」
「今日は汁を飛ばして、焼いた後。焦げたところと合わせるの」
小鍋から落とした汁が、茶色い肉へ薄く絡む。
二口目は、先に鼻が喜んだ。
酸っぱい香りが脂を軽くして、後に肉だけが残る。次を急いで噛むのが惜しいのに、口が勝手に開いた。
皿が空いた。
ミナは鉄板へ次の一枚を置いた。
「もう一つ、食べてみる?」
断る理由がない。けれど、お礼の一皿は食べ終えたので、先に代金を訊いた。
「追加の分は、いくらですか」
「お礼だから、いいよ。普通の一人前に、もう少し足すだけ」
ミナは俺の皿を、また鉄板の脇へ寄せた。
「お客さんにも、こんなふうに足すんですか」
「おいしそうに食べてくれると、つい」
味を喜ぶ顔を見て、肉を増やす。
うまい料理が途切れたら困る俺としては、放っておきにくい話だった。
*
「その皿、いつもの一人前か?」
午前の取引に来たオルンが、俺の皿を見た。
ミナは肉を足す手を止める。
「この人、うまそうに食べるんだもの」
「気持ちは分かるが、売る人間まで同じなら儲けが消えるぞ」
俺は箸代わりの串を置き、紙を一枚出した。
「今夜の商隊の注文、まとめませんか。肉は一皿何枚か決めて、厚い端は別に。俺が食べた礼の分は、こっちへ書きます」
人数の列を作り、店で売る分と、お礼にもらう分を分けた。
肉の仕入れ値、薪と酸果。ミナに聞き、皿ごとに使う量を並べる。
彼女が紙を見て、鼻の頭を掻いた。
「味は大丈夫。勘定はこれから」
「そこも、うまくいってほしいです。明日も食べに来たいので」
ミナは一瞬黙り、それから笑った。
「じゃあ、その紙、書き方教えて」
オルンと値段を決め、今夜は次の停車場で全員分を頼むことになった。
薄い端肉は、ミナが鍋へ回すという。
「焼くのと、煮るの、両方見たいです」
「見たいだけ?」
「味見もします」
ダンが後ろで、最初からそう言え、と笑った。
*
昼、屋台を車大工の小屋へ押していった。
修理の手が入る横で、ミナは夕飯の鍋を出した。
俺も空いた軒を掃き、包丁と器の置き場を決める。
端肉を切る仕事には《消費配分》を3 kcal/分。急がせるより、同じ厚さを揃える方へ思考を残した。
エナに教わった切り方を見せると、ミナが太い筋の所だけを指した。
「そこを先に外すと、噛む時に残らないよ」
刃先で筋を浮かせ、薄く切り離す。
鍋に入る物の形が、さっきより揃った。
脂で肉の端を焼き、刻んだ玉菜を入れる。
混ぜようとすると、ミナが匙の先を止めた。
「今は、焼かせて」
水っぽい音が減り、縁が茶色くなる。
そこで返した途端、甘い香りが上がった。
水を注ぐと、鍋底の色まで汁へほどける。
味見の一匙が、驚くほど濃かった。
肉を増やしたわけではないのに、最初から全部が汁に馴染んでいる。
「これ、俺にも作れますか」
「今、作ってる」
言われて、自分の匙を見た。
次に一人で鍋を出す時も、今日の匂いを思い出せそうだった。
「いつかね、今日おいしかったって人が、明日も来られる店にしたい」
ミナは鍋へ向けて言った。
「明日は、違う料理ですか」
「同じのが食べたい人にも出す。まず、ちゃんと値段を付ける所から」
俺は人数を書いた紙を、もう一度彼女へ渡した。
「そこなら、俺も手伝えます」
彼女は紙を受け、次の鍋の火を弱めた。
大工が車輪を叩く音の横で、玉菜が静かに煮え始めた。
昼の取り分を食べた後、道具を洗い、直った屋台へ戻した。
午後、直った屋台を道へ押し出した。
ミナはサルナの知り合いに屋台を預け、塩花洞の近くで新しい食材を探すのだという。
「サルナが、故郷なんですか」
「うん。帰るたび、知らない店が増えてるけど」
「いいですね、それ」
ミナは少し驚いて、それから笑った。
「そう。だから、まだ食べに帰れる」
屋台の隅に、古い札が一枚あった。裏返して縛ってあり、店の名前は見えなかった。
彼女はそれを道具の下へしまい、車輪を押した。
「サルナへ帰るなら、うちの列で来ればいい。夕飯も頼んだことだしな」
オルンの申し出に、ミナは頷いて屋台を商隊の最後尾へ付けた。今夜の停車場までは、まだ明るいうちに着ける。
俺が歩き出そうとすると、ミナに包みを渡された。
朝、うまいと言った焼き目の端だった。
「これは、朝の手伝いのお礼の残り。冷めた時の味も教えて」
肉が冷めても、縁の香りは残っていた。
噛む前から、次の飯が楽しみになる。
日暮れ前、次の停車場へ向かう途中で、屋台の脇の草が擦れた。
俺の口が止まった。
道の先には誰もいない。
それなのに、斜面の上で、足音がもう一つ重なった。
俺が護衛へ伝えると、彼は列を止めず、馬を道の内側へ寄せさせた。影がついてきているらしい。
停車場へ着いても、護衛たちは火の周りへ荷車を集め、槍を手の届く所へ置いた。今夜は見張りを増やす、とオルンが皆へ告げた。




