十五食目 勝利の味は、塩ひとつ
翌朝の工房裏で、木剣が布の的を揺らした。
踏み込み、戻す。力を抜いても、足は同じ位置へ着く。
昨日の動きを短く繰り返してから、俺は画面を閉じた。
最大追加消費は、15 kcal/分。
昨日は、剣を引いた後の一歩が遅れた。今朝はその一歩が戻り、まだ次へ出る力が残っている。稽古と荷重を重ね、食べて眠った手足が、ようやく昨日の先へ届いた。
「昨日の合図で、いきましょう」
俺が言うと、セラは頷いた。
ガドが補修用の板を肩へ掛ける。
借りた採取棒は、俺が持った。
*
水場では、三本の橋を確かめ直した。
入口の大岩、真ん中の平石、右の岩。ガドが割れた上板を替え、綱を締める。
俺は横の岩と水面の小岩の間へ、採取棒を斜めに渡した。
人が歩く道からは外す。蛙が橋へ寄った時にだけ、前脚が触れる高さだ。
押し返すための棒ではない。
脚を持ち上げ直す、一瞬が欲しい。
大釜蛙が、俺を見た。
《収支眼》(しゅうしがん)に、袋へ寄る流れが映る。
俺は手を上げた。
セラが平石から、橋とは遠い側の前脚へ冷水を浴びせた。
蛙が脚を引き、こちらへ体を寄せる。
まだ、出ない。
棒の手前で、爪が石を掴んでいる。今なら体を支えて踏み直せる。
俺は大岩を指し、セラと戻った。
白い息が、橋の上を走る。
焦らなかった分だけ、次を見る余裕があった。
蛙は吐き終えると棒を跨ぎ、中央へ戻った。
どの脚を上げるか、覚えておく。
*
次の溜めで、同じように寄せた。
今度は、袋を膨らませながら前脚が棒へ触れる。
跨ぎ直そうと、爪が石を離れた。
脚の流れが細い。
重い体が、一瞬止まる。
手を下ろした。
《消費配分》(しょうひはいぶん)。脚と防御を残し、腕へ5 kcal/分を渡す。
攻撃力 13 + 5
橋を二歩。
横の岩へ足を置く。
正面へ回らず、昨日つけた袋の下の傷へ刃を入れた。
「――そこだ」
腰から引く。
厚い皮が裂けた。
白い息が、袋の底から下へ噴き出す。
俺は両足を岩へ移し、顔を伏せた。熱い飛沫が顎を撫でる。
蛙が体を振った。
前脚が橋を叩く。
板が、ずれた。
入口でガドの鉤が綱を引く。留め具が閉じ、張った縄が板を引き止めた。
両端は、まだ岩の上だ。
戻る道は残っている。
蛙の脚へ、流れが戻りかける。
だが、裂けた袋へも力を送り続けている。下へ漏れる蒸気が、途切れない。
今なら、間に合う。
俺は体を起こし、両手で柄を握った。
切り開いた袋の奥、首へ続く柔らかい所へ剣先を向ける。
足を置き、腰を送る。
突いた。
刃が、袋の奥へ通る。
膨れ上がっていた皮が、下から一気にしぼんだ。漏れた蒸気が水面を走り、巨体が片側へがくりと落ちる。
俺は柄を引き、岩を蹴って退いた。
次の爪は、来なかった。
水面が揺れる。
前脚が一度、石を掻いた。
それが、最後だった。
*
平石を渡り、大岩の陰へ戻った。
《収支眼》と強化を切る。
肩は重い。手も少し震えている。
それでも、剣を鞘へ収めることは出来た。
「倒せた」
声にすると、笑いが込み上げた。
昨日は届いた傷一つ。今日は、その先まで通った。
セラが平石の上で、大きく手を振った。
「通れた! あの棚まで、もう通れるよ!」
彼女が指した先で、霧が薄れていく。救助の時には近づけなかった岸が、入口から見えた。
ガドは綱を外す前に、親指を立てた。
俺も同じ形で返した。
剣だけでは届かなかった。
彼の道具と彼女の合図を借り、俺が見つけた瞬間へ、自分の足で踏み込んだ。
勝った。
入口を塞いでいた巨体の向こうに、採取棚へ続く道が見える。
もう、誰かを置いて戻る必要はない。今は遠慮せず、俺が開けた道だと思えた。
*
大釜蛙を、そのまま台所へ持ち込んだりはしなかった。
解体屋の人が来て、袋と毒のある部分を分けた。
俺は持って帰ってよい肉の場所を聞き、取り分の腿を包んでもらう。
報酬の清算と、道具代の分担も済ませた。
ギルドの受付で、最初に技能便覧を開いた男が、討伐の記録を見ていた。
「主戦力には数えられんと、言ったな」
俺は頷いた。
「俺が袋の溜めを見て、セラが向きを変えてくれました。ガドの板で横へ入り、俺の剣で仕留めました」
「その三人で、あれを倒したんだろう」
男は、俺の名の横へ印を付けた。
「名前の知らん技能でも、何が出来るかは仕事で分かった。次は、もう少し任せる」
礼を言う時、口元がどうしても緩んだ。
帰り道に食べたい物が、また一つ増えそうだった。
手元には銅貨が増えた。
背中には、肉がある。
帰り道は、かなりいい気分だった。
ただし、もう強化して急ぐことはしない。
今日は、足を揃えて戻るだけで十分だった。
食堂には、トマの席も作ってもらった。
包帯を巻いた足を伸ばし、彼は肉の包みを見た途端に笑った。
「本当に持ってきたのか」
「相談したら、揚げるそうです」
「それは、俺の知らんやり方だ」
マルタは薄く切った肉へ塩を揉み、しばらく置いた。
表の水気を拭き、粉を薄く付ける。
油へ入れると、軽い音が広がった。
白っぽい肉の端が、少しずつ金色へ変わる。
俺は黙って待った。
せっかく勝ったのだから、最後のところで急ぎたくなかった。
皿へ上がった肉へ、酸果を少し絞る。
熱いうちに、齧った。
衣が、ぱりっと鳴った。
中は硬いどころか、押すと跳ね返すように柔らかい。細かい筋に沿って温かい汁が出て、酸果の香りが脂の後を追った。
俺は目を閉じた。
「……うまい」
隣のセラも、向かいのガドも、すぐには返事をしなかった。
トマだけが二口目の後で、硬かった頃の蛙へ悪かったな、と言った。
俺は笑って、もう一つ取った。
*
「その肉なら、こいつも合う」
マルタへ荷を届けに来た商人が、小さな包みを開いた。
中には、薄い花びらみたいな結晶が入っている。
塩だという。
普通の塩ではないのかと訊くと、男はオルンと名乗り、指先へ少しだけ乗せた。
「サルナの塩の花。味見分だ。一度で全部振るなよ」
俺は揚げた肉を二切れ取り、片方へほんの少し付けた。
口へ入れる。
先に、細い塩気がほどけた。
その後で肉の甘みが、さっきよりはっきり残る。
ひと口ずつ交互に齧ると、塩を付けた方は、冷めかけても肉の甘さが残った。
「……これ、町で買えますか」
「少しならな。採る場所で買えば、もっと選べる」
「遠いんですか」
「東へ五日か六日。俺も、今度そっちへ出る」
俺は包みを見た。
小さな塩だった。
それだけで、今食べた肉の先へ、知らない料理が続いている気がした。
魔物を狩って、うまく作る。
食べた分を貯めて、次の場所へ行く。
時々、昼に眠る。
俺の二度目の人生は、ずいぶんいい形になり始めていた。
食後、借りた道具を洗い、返す分と自分の荷を分けた。
料理がゆっくり吸収される頃には、眠気も来た。
「旅に出るとしても、明日は休んでいきな」
マルタが言った。
「そのつもりです。たっぷり寝て、それから塩の相談をします」
俺は頷き、最後に一つだけ、残しておいた肉を食べた。
次は、もっといい塩で食べてみたい。
新しい旅の理由としては、それで十分だった。




