第97段階:もうどこにも行かない
ルシウスが南側の窓から何を見たのか。
それは考えるまでもなかった。
執務室の重厚な扉が、乱暴な音を立てて押し開けられた。
廊下に控えていたカシアンの横を、凄まじい勢いでルシウスが駆け抜けていく。
「閣下!」
背後から聞こえる副官の声に答えることもなく、ルシウスはただ前だけを見て走った。
かつての彼であれば、空間転移の魔法を編み上げるのに一秒すら必要としなかった。
視界に捉えた場所へ、思考とほぼ同時に到達できた。
しかし今の彼には、魔力がない。
空間を繋ぐ術式も、身体能力を強化する魔法も、自らを魔導王たらしめていたすべての力を生命の樹へ明け渡してしまった。
だから、自分の足で走るしかない。
大理石の冷たい床を蹴り、長い回廊を全力で駆け抜ける。
重い黒のロングコートが風に翻り、ロキによって若さを取り戻したばかりの肉体が、慣れない全力疾走に悲鳴を上げる。
肺が焼けつくように熱くなり、荒い呼吸が漏れた。
それでも、ルシウスは決して足を緩めなかった。
白銀の髪を振り乱し、額に汗が滲むのも構わず走り続ける。
魔導宮の庭園へ飛び出すと、そこにいたエマやガロン、ローデンたちが、信じられないものを見るように目を見開いて道を空けた。
世界が蘇り、色鮮やかな花々が咲き乱れる庭を、ルシウスは一直線に突っ切っていく。
目指すのは、ただ一つ。
魔導宮の奥にそびえる、あの巨大な生命の樹だった。
世界を救うためでも、魔導宮の主としての義務でもない。
ただ、フェイに会いたかった。
息を切らし、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打つ中、やがて視界が開けた。
高く澄み切った青空の下。
瑞々しい緑の葉をいっぱいに茂らせた生命の樹の根元に、一人の少女が立っていた。
風に揺れる白金の髪。
驚いたように見開かれた、透き通るアイスブルーの瞳。
そして、あの夜に彼女が纏っていたアイボリーのワンピース。
一か月間、ただの一日たりとも忘れたことのない姿だった。
見間違えるはずがない。
ルシウスは足を止めなかった。
残された力のすべてを振り絞るように、さらに速度を上げる。
距離が縮まる。
十歩。
五歩。
三歩。
「……フェイ」
荒い息の合間から、掠れた声がこぼれた。
そして彼女のもとへ辿り着くや否や、ルシウスはその小さな身体を腕の中へ強く抱きしめた。
腕の中に、柔らかな感触がある。
温かい。
生きている。
それを確かめるように、ルシウスは彼女の背中へ回した腕にさらに力を込めた。
幻のように消えてしまわないように。
もう二度と、自分の前からいなくならないように。
「フェイ。フェイ」
耳元で、何度もその名を呼ぶ。
荒い呼吸に混じる声は、微かに震えていた。
書斎の静寂の中で、もう二度と叶わないと諦めた願い。
ただ一度、もう一度だけと願ったものが、今、その腕の中にいる。
「……会いたかった」
絞り出すような声だった。
フェイは驚いたように目を瞬かせていたが、
自分を抱きしめる腕の強さと、その声の震えに気づくと、大きな瞳を揺らした。
何かを伝えようと、小さく口を開く。
「……ぅ……ぁ」
けれど、喉から漏れたのは微かな音だけだった。
フェイは戸惑ったように眉を寄せ、もう一度声を出そうとする。
「……ぁ……」
それでも、言葉にはならない。
ルシウスは腕の中のフェイが必死に何かを伝えようとしていることに気づき、僅かに身体を離してその顔を見つめた。
「言葉が、出ないのか?」
フェイは少しだけ眉を下げ、こくりと頷いた。
ルシウスはしばらくその顔を見つめていた。
かつての彼なら、即座に原因を探っただろう。
肉体の状態を解析し、魔力の流れを読み取り、使える術式を片端から検討したはずだ。
だが今、その必要はなかった。
フェイが生きている。
再びこの世界に立ち、自分の腕の中にいる。
それだけで十分だった。
「どうとでもなる。……だから、もうどこへも行くな」
静かな声だった。
けれど、その言葉だけは決して揺らがなかった。
フェイは少し驚いたように目を丸くした後、ふわりと柔らかく微笑んだ。
そして少女はそっと、だが確かに、かつて魔導王と呼ばれた男の背中に手を回した。
*
私の体を包み込む彼の腕は、あの日と同じように大きくて、温かかった。
少しずつ。
少しずつ。
彼の腕に力が込められていく。
ぽとっ。
ぽとっ。
私の髪へ、小さな水滴が落ちた。
空は青かったはずなのに。
不思議だな。
そう思って顔を上げようとした瞬間。
それを許さないように。
彼はもう一度、強く。
とても強く、私を抱きしめた。
私はそっと目を閉じる。
彼の鼓動が聞こえる。
彼の温もりが伝わる。
私の頬にも、雨のような温かい雫が滴り落ちる。
私は何も言わず、その腕の中へ身を委ねた。
『私は、もうどこにも行かない。』




