エピローグ:世界でいちばん好きな人
それから、しばらく経ったある日のこと。
生命の樹の下には、穏やかな午後の陽射しが降り注いでいた。
かつて衰退の象徴でもあった巨大な樹は、今では瑞々しい葉をいっぱいに茂らせ
柔らかな風が吹くたびに木漏れ日を揺らしている。
その根元に、二人並んで座る姿があった。
フェイが戻ってきてから、ルシウスはよく笑うようになった。
といっても、声を上げて笑うようになったわけではない。
相変わらず表情の変化は乏しく、知らない者が見れば以前と大して変わらないと思うだろう。
けれど、魔導宮の者たちは知っていた。
フェイが隣にいる時だけ、紫水晶の瞳がほんの少し柔らかくなること。
彼女が楽しそうに笑えば、それを見つめる口元にも僅かな笑みが浮かぶこと。
数百年を共にしてきたカシアンなど、最初にそれを見た時にはしばらく無言になったほどだった。
一方、フェイは生命の樹から戻ってきた代償として、言葉を失ったままだった。
声が出ない。
それでも、彼女自身は以前と何も変わらない。
嬉しい時には満面の笑みを浮かべ、美味しいものを食べれば瞳を輝かせ、怒れば頬を膨らませる。
そして最近では、言葉の代わりに文字を使うことも覚えた。
生命の樹にもたれて座るルシウスの隣で、フェイはふと思いついたように彼の左手を取った。
ルシウスが視線を落とす。
フェイはその大きな掌を上へ向けさせると、人差し指を立てた。
そして、ゆっくりと一文字を書く。
『る』
『し』
ルシウスの眉が僅かに動いた。
フェイは楽しそうに笑いながら、さらに指を滑らせる。
『す』
『き』
「…………」
ルシウスが黙った。
フェイは彼の掌を握ったまま、返事を待つようにアイスブルーの瞳でじっと見上げている。
ルシウスは僅かに顔を逸らした。
白銀の髪の隙間から覗く耳が、ほんの少し赤い。
それでも、しばらくすると観念したように小さく息を吐いた。
「……私もだ」
その瞬間、フェイの顔いっぱいに笑みが広がった。
そんな二人の様子を、少し離れた生命の樹の枝の上から眺めている男が一人。
ロキだった。
「……なんか、すげーむかつくんですけど」
頬杖をつきながら、心底面白くなさそうに呟く。
「独り身の僕にはダメージでかいんですけど。
特にその手文字。なにそれ。二人ともいちゃいちゃしすぎじゃない?」
ルシウスが冷たい視線だけを向けた。
フェイは意味が分からないのか、にこにこと笑っている。
「その顔もむかつくなあ」
ロキがぶつぶつと文句を垂れていた、その時だった。
こつん。
何かがロキの頭に落ちた。
「痛っ」
反射的に受け止めたそれを見て、ロキは目を瞬いた。
リンゴだった。
鮮やかな赤い実を掌の上で転がし、やがて頭上の生命の樹を見上げる。
「……へえ」
金色の瞳が、面白そうに細められた。
かつてこの樹へ流れ込んだもの。
生命を司る女神の力。
そして、人間でありながら神の領域にまで踏み込んだ魔導王が、数百年をかけて蓄積した膨大な知識。
その二つを取り込み、新たな生命循環を完成させた樹が実らせたもの。
ロキは枝からひらりと飛び降りると、リンゴをフェイへ投げた。
フェイは慌てて両手で受け止める。
「リンゴだよ。魔導王の知恵の結晶さ」
ロキは生命の樹を見上げながら、悪戯っぽく笑った。
「食べると良いかもしれないね」
フェイは掌の中のリンゴとロキを交互に見た。
それから隣のルシウスを見る。
ルシウスは少し訝しげな顔をしていたが、止めることはしなかった。
フェイは恐る恐る、赤い実に齧りついた。
しゃくっ。
瑞々しい音がする。
次の瞬間
フェイのアイスブルーの瞳が、きらきらと輝いた。
どうやら、相当美味しいらしい。
もう一口齧ろうとして
ふと、その動きが止まった。
フェイは何かに気づいたように喉へ手を当てる。
ルシウスの表情が変わった。
「フェイ?」
少女はゆっくりと顔を上げた。
目の前にいる白銀の髪の男を見つめる。
そして、確かめるように唇を開いた。
「……ル……シ」
ルシウスの紫水晶の瞳が、大きく見開かれた。
フェイ自身も驚いたように口元へ手を当てる。
けれど、すぐにその顔いっぱいに、昔と何一つ変わらない笑顔が咲いた。
今度はもう一度
少しだけはっきりと。
大好きな人の名前を呼ぶ。
「ルシ」
生命の樹の葉が、風に揺れた。
その向こうには、どこまでも青い空が広がっていた。
―― Fin. ――




