第96段階:会いたい
静まり返った書斎の中で、鮮やかな青い翅を持つユリシス蝶がゆっくりと舞い続けていた。
ルシウスは椅子に深く身を沈めたまま、その青い軌跡をぼんやりと目で追っていた。
ユリシスもまた、フェイがこの世界へ連れてきたものだった。
灰色の森から一人の少女を拾い上げて以来、この死にゆく世界には、数え切れないほどの不思議なことが起きた。
乾ききっていた大地から緑が芽吹き、長い間姿を消していた生き物たちが次々と戻ってきた。
食卓には彩り豊かな食材が並ぶようになり、灰に覆われていた花園は鮮やかな色を取り戻した。
だが、ルシウスが今、静かな書斎で思い起こしているのは
そうした世界を揺るがすような奇跡の数々ではない。
彼の中に蘇るのは、もっとささやかで、何でもない日常の風景ばかりだった。
フェイがいた日常。
食堂の大きなテーブルで、美味しいと笑いながらパンを頬張る姿。
花園で土にまみれ、植物に熱心に話しかけている姿。
玄関の重い扉が開き、「ただいま」と帰ってくる元気な声。
冷たい石造りの回廊を、エマやガロンたちと楽しげに話しながら歩く小さな背中。
そして、壁の時計が十五時を指す頃になると、弾むような足音とともに
この執務室の扉を開け、「ルシ」と呼んで隣に座った。
魔導宮も、花園も、食堂も、そしてこの執務室も、
フェイが来るずっと前からここにあった。
十五時という時刻だって、数百年の間、毎日等しく訪れていた。
それなのに、彼女が現れてからの魔導宮は、ルシウスにとってまったく違う場所になった。
世界に色がついた。
だけではない。
暗く冷たかった場所の一つ一つに、灯りが灯ったのだ。
彼女がそこで笑っているだけ。
美味しそうに食事をしているだけ。
他愛のない話をしているだけ。
自分の隣に座っているだけ。
それだけで、何の意味も持たなかったはずの景色が、キラキラと輝いて見えた。
いつしか、ただ戻るだけだった魔導宮が、帰る場所になっていた。
ルシウスにとって、この数百年という時間は、
果たして「生きていた」と呼べるものだったのだろうか。
神々を討ち果たした後、致命的な傷を負った人間界を延命させるため、生命の樹へ自らの魔力と生命力を注ぎ続けた。
世界の崩壊を押し留め、魔導宮を統べ、ただ役割を果たし続けた。
明日が来ることに何の喜びもなく、過ぎゆく時間に価値を見出すこともなく、
同じ日々を何百年も繰り返した。
そんな彼が、フェイと出会って初めて、数時間後の未来を待つようになった。
今日は何を話すのだろう。
十五時になれば、彼女がここへ来る。
また、くだらない話を聞かされるのだろうか。
そんな何でもない時間を、いつの間にか待つようになっていた。
フェイと共に過ごした一年近くの短い時間こそが、数百年の時を生きてきたルシウスにとって、
唯一、一人の人間として生きたと呼べる時間だったのかもしれない。
青い翅が、窓から差し込む午後の日差しを受けてきらりと光った。
ルシウスは、主のいなくなった来客用のソファへ視線を移す。
もうそこには、屈託のない笑顔で紅茶を飲む少女の姿はない。
彼女は自らを捧げ、文字通りこの世界そのものになってしまった。
自分が守りたかったたった一つの光は、もう二度と、自分の元へは戻ってこない。
そのどうしようもない現実を前にして、ルシウスの頭の中に、あまりにも単純な言葉が浮かんだ。
(……会いたい)
世界をかつての姿に戻したいわけではない。
理不尽な運命を覆す奇跡を起こしたいわけでもない。
ただ、彼女に会いたい。
もう一度だけ、名前を呼ばれたい。
彼女の最後の『大好きだよ』という言葉を思い返す。
(私は。自分の気持ちも、伝えられなかった)
数百年間、感情よりも理性を優先し、自分自身の願いなどほとんど持たずに生きてきた男が、
もう絶対に叶わないと理解した今になって初めて、その切実な願いを自覚していた。
ルシウスは、誰にも聞こえないほど静かに、深く息を吐き出した。
涙は出なかった。
ただ、虚ろな紫水晶の瞳で、宙を舞う青い蝶を見つめていた。
コンコン。
重く沈んだ書斎の静寂を破るように、控えめなノックの音が響いた。
ルシウスは視線を動かさないまま、沈黙を保った。
今日は、誰の顔も見たくない。
誰の言葉も聞きたくなかった。
しかし、扉の向こうからカシアンの落ち着いた声が聞こえてきた。
「閣下。至急、ご報告がございます」
いつもなら、カシアンが「至急」と口にした用件を後回しにすることなどあり得ない。
だが今のルシウスには、何を聞く気力も残っていなかった。
「……後にしてくれないか」
掠れた声でそう返すと、扉の向こうでカシアンが僅かに言葉を呑んだ気配がした。
それでも、無理に入室してくることはなかった。
数秒の間を置いて、カシアンが静かに答える。
「承知しました。では、扉越しに失礼いたします」
そして続いた言葉は、ルシウスが予想していたどんな報告とも違っていた。
「至急、南側の窓をご覧ください」
ルシウスは怪訝に眉を寄せた。
政務の報告でも、敵襲を告げる警報でもない。
ただの、意味の分からない指示だった。
「……何だ?」
返事はない。
訝しく思いながらも、ルシウスは気怠げに椅子から立ち上がった。
足取りは重い。
彼の胸には、何か素晴らしい奇跡が起きるというような期待など微塵もなかった。
今朝、眩しいほどの青空を見て、フェイが完全に戻ってこないことを悟り、最後の希望を手放したばかりなのだ。
南の窓を見たところで、その事実が覆るはずもない。
ルシウスは黒いロングコートの裾を揺らしながら、部屋の南側にある大きな窓へ向かった。
窓枠に手をかけ、硝子越しに外を見下ろす。
――そして。
ルシウスの紫水晶の瞳が、大きく見開かれた。
呼吸が止まる。
ほんの一瞬、思考から何もかもが消えた。
ただ窓の外の一点だけを見つめたまま、動くことすらできなかった。
次の瞬間
ルシウスは何も言わなかった。
カシアンに事情を尋ねることも、状況を確認することもしない。
白銀の髪を翻し、弾かれたように踵を返す。
重厚な書斎の扉を勢いよく開け放ち、ルシウスは執務室を飛び出した。




