第95段階:神様からのプレゼント
フェイが世界を救うために生命の樹と融合し、
神々が滅びた後の狂った理をただ一人で背負っていたルシウスが、
魔導のすべてを明け渡してから一か月。
「……君は、この世界になったんだな」
そう呟いた朝。
ルシウスは、窓の外に広がる眩しいほどに澄み渡った青空と、庭園で絶滅から息を吹き返した草花を見つめながら、己の中に残っていた最後の希望を手放した。
この一か月、世界が元の姿を取り戻さなかったことを、彼は無意識のうちに
「フェイの融合がまだ完全には終わっていないのではないか」
「まだ彼女が戻る可能性があるのではないか」
という僅かな希望に変えていた。
しかし、世界が完全に蘇ったことは、フェイが生命循環の基盤となり、
生命の樹との融合を終えたことを意味する。
もう二度と、彼女が一人の少女として自分の前へ戻ってくることはないのだと。
その日、ルシウスは一か月間、一日も欠かさなかった生命の樹への日参を初めて取りやめた。
朝食の席に姿を見せることもなく、重い扉を閉ざして書斎へと閉じこもった。
今日は誰とも会うつもりはなかった。
カシアンたち魔導宮の者たちも主の深い沈黙を察しており、誰も扉を叩いて彼の孤独を破ろうとはしなかった。
昼を過ぎ、午後になっても、
ルシウスは執務机の前に座ったまま身じろぎ一つしなかった。
机の上には何枚かの重要な決裁書類が開かれたままだが、
文字列を追う視線は滑るばかりで、まったく頭に入ってこない。
彼にとって
今日は、世界が救われ、人類の生存が約束された喜ばしい日などではない。
ただ、フェイがもう二度と戻ってこないことを、世界そのものから残酷に突きつけられた日だった。
だからせめて今日だけは、一人で彼女のことを思っていたかった。
ルシウスの胸の内には、泣き崩れたいほどの途方もない喪失が横たわっていた。
しかし、涙すら出ない。
視線を上げると、いつもフェイが座っていた来客用のソファが、無機質にそこにあった。
十五時が近付いても、茶葉の香りはしない。
彼が下手な相槌を打ちながら聞いていた、彼女の他愛のない声も聞こえない。
当たり前だった日常から一つひとつ音が失われていくような静けさだけが、書斎を満たしていた。
「老けたね、魔導王」
静寂に包まれていたはずの書斎に、不意に声が落ちた。
ルシウスが視線を向けると、開け放たれた窓の縁に、いつの間にかロキが腰掛けていた。
その黄金の瞳は、彼特有の悪戯っぽい光を宿したまま
ルシウスの白くなった髪と、年齢を刻み始めた顔をじっと見下ろしていた。
ルシウスは突然の侵入者に対しても、怒りを見せることはなかった。
ただ疲労の滲む声で、短く返す。
「もう、王ではない」
彼は自分を魔導王たらしめていた力も、知識も、魔導回路も、そのすべてを生命の樹へ明け渡している。
今の彼は、もう魔導王ではなかった。
その返答を聞き、ロキは少しだけ意味ありげに口の端を上げた。
「君らしいね」
そして窓枠からひらりと飛び降りると、事もなげに言った。
「これ、僕からのプレゼント」
ロキが軽く指先を鳴らすと、ルシウスの身体を淡い光が包み込んだ。
それと同時に、魔導を失ったことで急激に表面化していた彼の「肉体の時間」が、
巻き戻されるように修復されていく。
目尻や口元に刻まれていた微かな皺が消え、年齢の重みを帯び始めていた身体が
魔力を失う以前の若々しい姿へと戻っていった。
ただし、生命の樹へすべてを明け渡した証である白銀の髪だけは、漆黒へ戻ることはなかった。
そして、肉体が若返ったからといって、失われた魔力や魔導知識が戻ったわけでもない。
ロキが干渉したのは、あくまで彼の肉体に流れる時間だけだった。
ルシウスは自身の手元へ視線を落とし、微かに眉をひそめて迷惑そうに呟いた。
「余計なことを……」
「まぁまぁ。その方がかっこいいし、女の子受けもいいと思うけど?」
ロキはいつもの掴みどころのない軽さで笑った。
ルシウスは怪訝な顔でロキを見る。
「何が言いたい?」
ロキは答えなかった。
悪戯っぽい笑みを残し、軽く手を振る。
「ばいばーい」
ペロッと舌を出した次の瞬間、その姿は幻のように掻き消えた。
ロキがいなくなると、書斎には再び重い静寂が戻った。
ルシウスは若返った自分の手をしばらく見つめていたが、そこに喜びなど微塵もなかった。
フェイのいない世界で若さだけを取り戻したところで、今の彼には何の意味も見出せなかった。
ロキの残した「女の子受けもいい」という軽口について考える気力すらなく、ルシウスはひどく疲れたように、ゆっくりと椅子へ背を預けた。
世界中の人々が青空を見上げ、訪れた再生を喜んでいる。
その中で、彼だけが一人、静かにフェイを失った現実の中に取り残されていた。
しばらくして、ロキが消えていった開け放たれた窓から、一匹の蝶がふわりと部屋の中へ舞い込んできた。
普通の蝶ではない。
その翅は、吸い込まれるような鮮烈な青をしていた。
ユリシス。
ルシウスは椅子に深くもたれたまま、その青い翅をぼんやりと目で追った。
世界が完全に蘇ったことで、かつて絶滅した生き物たちも戻ってきたのだろう。
この珍しい蝶も、その一つに過ぎない。
それ以上、考えることはなかった。
今日、最後の希望を手放したばかりの彼には、その小さな青い翅が何を運んできたのかなど、想像することさえできなかった。
静まり返った書斎の中を、ユリシス蝶はひらひらと舞う。
一度、ルシウスの目の前を横切り、また窓辺へ。
それでも外へは出ていかず、まるで誰かを待っているかのように、柔らかな陽光の中をいつまでも舞い続けていた。




