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神を殺した魔導王は、花を咲かせる少女を拾った  作者: 名前はまだない
【最終章】世界になった少女

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第94段階:君は、この世界になった

フェイが世界を救うために生命の樹へその身を捧げ、

ルシウスが自身を魔導王たらしめていたすべての力と知識を明け渡してから、

およそ一か月の月日が流れた。


二人がこれほどまでの代償を払ったにもかかわらず、世界はすぐには蘇らなかった。


それどころか、魔導宮を取り巻く景色は、

フェイという少女がこの場所へ現れる以前の静かに衰退していく世界へと戻っていた。


空は再び分厚い灰色の雲に閉ざされる日が増え、差し込む陽光にもどこか力がない。

庭師が丹精込めて育ててきた植物は瑞々しさを失い、花をつけるものも少なくなった。


魔導宮で飼われている鶏も同じだった。


フェイが毎朝のように楽しげに卵を集めていた頃には、一日で籠がいっぱいになることさえあった。

それが今では、二、三日に一個。


誰かが口にするまでもなく、皆が気付いていた。


フェイが一年近く、ただそこにいるだけで世界へ分け与えていたものが、もうどこにもない。




そして変化は、世界だけに現れたわけではなかった。


ルシウスの肉体にも、時間が戻り始めていた。


漆黒から白銀へと色を失った髪。

目尻や口元には、これまで存在しなかった微かな皺が刻まれ、

立ち姿にも以前にはなかった年齢の影が滲み始めている。


数百年もの間、膨大な魔力と魔導によって押し留められていた歳月が、

堰を切ったように彼の身体へ追いつこうとしていた。


一週間前より今日。

昨日より今日。

ルシウスの中を流れる時間だけが、世界の誰よりも速かった。



本人は、それを気にする様子すらなかった。


鏡の中に増えていく変化を確かめることも、失われた若さを惜しむこともない。

ただ以前と変わらず書斎へ向かい、残された仕事をこなし、淡々と一日を終える。


カシアンをはじめ、魔導宮に仕える者たちは当然その変化に気付いていた。



けれど、誰も何も言わなかった。

言えなかった。




そんなルシウスにも、フェイが姿を消したあの日から、

一日も欠かさず続けていることがあった。



毎朝、生命の樹へ行く。


冷たい雨の日も。

鉛色の雲が空を覆う朝も。


目を覚ますと、ルシウスは一人で魔導宮を出て、自分の足で

生命の樹まで歩いた。


魔力を失った今では、かつてのように樹の内部へ意識を潜らせることはできない。

フェイの魂を探すことも、その存在を感じ取ることさえできなかった。


ただ巨大な幹の前に立ち、時折、分厚い樹皮へ掌を当てる。




何も返ってこない。


明るい声も。

いつもの笑顔も。

自分を呼ぶ「ルシ」という声も。




生命の樹は、ただ静かにそこにあった。




それでも翌朝になれば、また行った。


一日も欠かさず、一か月。



なぜそこへ通い続けるのか、ルシウス自身も言葉にはしなかった。


ただ、一か月が経っても世界は蘇っていない。

生命を司る女神が本当に生命の樹と完全に一つになったのなら、なぜ世界は未だ衰退したままなのか。


ならば、まだ

ほんの僅かでも

フェイという一人の少女が、あの樹のどこかに残っているのではないか。


いつか何事もなかったように姿を現し、遅くなったとでも言いたげに笑うのではないか。




そんな奇跡が起こる可能性など、誰よりもルシウス自身が理解していた。

数百年もの間、世界の理を解き明かし続けてきた男にとって、それは理屈ですらない。



それでも、朝になれば生命の樹へ向かった。




そして、

フェイが生命の樹へ消えてから、ちょうど一か月ほどが過ぎた朝。


世界は、目を覚ました。




ルシウスが瞼を開いた時、部屋へ差し込む光が昨日までとは違っていた。



……眩しい。




それだけのことに、しばらく目を細めた。


この一か月、空を覆い続けていた灰色の雲が消えている。

窓の向こうには、どこまでも高く、澄み切った青空が広がっていた。

開いた窓から流れ込む風は柔らかく、冷え切っていた大地を包み込むような温もりを帯びている。



ルシウスは静かに部屋を出た。


回廊の窓から見下ろした庭園は、昨日までとは別の場所のようだった。


萎れかけていた草木が朝露を纏い、瑞々しい葉を広げている。

固く閉ざされていた蕾はほころび、色鮮やかな花々が風に揺れていた。



その花の間を、何かが横切った。


アゲハ蝶だった。


透き通るような翅を陽光に煌めかせながら、一匹、また一匹と舞い上がる。

とうの昔に、この世界から姿を消したはずの蝶。


遠くから、ガロンの大きな声が聞こえた。


鶏が卵を産んだらしい。

一個でも、二個でもない、籠いっぱいに。

誰かの歓声が上がった。


庭師が声を上げている。


使用人たちが窓を開け、久しく見ることのなかった青空を見上げている。


長い時間をかけて死へ向かっていた世界が、息を吹き返していた。




けれど

ルシウスだけは、笑うことができなかった。


窓辺に立ったまま、何も言わずにその景色を見つめていた。


青い空。

暖かな風。

咲き乱れる花。

失われたはずの蝶。


あまりにも美しい朝だった。


だからこそ、分かってしまった。




一匹のアゲハ蝶が、開いた窓から回廊へ迷い込んだ。


ひらひらと陽光の中を舞い、ルシウスのすぐ傍を横切っていく。


彼はその軌跡を目で追った。

蝶は一度だけ窓枠へ止まり、再び青空へ飛び立っていった。


長い沈黙の後、ルシウスの唇が僅かに動いた。




「……君は、この世界になったんだな」




声は静かだった。


その日、ルシウスは生命の樹へ行かなかった。

一か月間、雨の日も、風の日も、一日として欠かさなかった朝の日課を、初めて途絶えさせた。


行かなかったのではない。

行けなかった。


朝食にも姿を見せず、そのまま書斎へ入った。


扉は、一日中開かなかった。


カシアンも、エマも、ガロンも、誰一人、その扉を叩かなかった。


窓の外では、久しぶりに現れた太陽の下を、色とりどりの蝶が舞っていた。




世界は今日、ようやく蘇った。


その美しい朝に、ルシウスだけが、待つ理由を失った。

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