第93段階:知の萌芽
生命の樹の前に立ち尽くしていたルシウスは、
もはや魔導王と呼べるような力や覇気を一切纏っていなかった。
漆黒だった髪は根元まで白く染まりきり、
世界を震撼させた桁外れの魔力も、
彼を最強たらしめていた緻密な魔導回路も、
今はその身体のどこにも残っていない。
カシアンがゆっくりと主の元へ歩み寄り、崩れ落ちそうになっていたその身体を無言で支えた。
「……帰りましょう、閣下」
「…………」
ルシウスは何も答えず、生命の樹を見つめようともしなかった。
彼の足取りは重く、抵抗する素振りも見せない。
カシアンは、魔力を使い果たしただけの疲労ではなく、
彼の中から何百年も燃え続けていた執念のようなものが根こそぎ消え失せているのを感じていた。
二人は一言も言葉を交わすことなく、夜の森を抜け、魔導宮へと引き返していった。
その一部始終を、少し離れた茂みの影から静かに見届けていた二つの影があった。
ロキとロスカだった。
ロキは、白くなったルシウスの髪と、魔力も魔導も完全に捨て去ったその背中を、見えなくなるまで金色の瞳でじっと追っていた。
「……王を、捨てたか」
ロキは小さく、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「王であり続けるために戦い、すべてを支配しようとしたオーディンじゃ……
大切なもの一つ守る為なら、躊躇なく『魔導王』なんて地位も力も捨てられるあいつには、到底勝てないね」
それは、神々の王と人間の魔導王の、決定的な在り方の違いに対するロキなりの答えだった。
ロスカは、主であるフェイを完全に取り込み、淡い光を放ち続ける巨大な生命の樹を見上げた。
「ロキ。もう……主をこの世界に戻す方法は、ないのか?」
千年の間、主を待ち続けた誇り高き白狼の声が、微かに震えていた。
ロキは少し困ったように、後頭部を掻く。
「……そんなこと、僕に言われてもね」
運命を司るノルンではなく、悪戯好きの神に過ぎないロキには
生命の樹と完全に融合してしまった存在を分離し、外へ引き戻す方法などまったく見当もつかなかった。
その直後だった。
巨大な生命の樹の枝葉の一部が、不自然に淡く発光し始めた。
最初は、樹自体が新たな生命力を得たことによる、ただの魔力の発光かと思われた。
しかし、ロキが黄金の瞳を細めて目を凝らすと、光っているのは葉そのものではない。
葉の表面を走る「葉脈」であることに気付いた。
さらに奇妙なことに、その発光する葉脈は、自然の植物が描く幾何学的な模様ではなかった。
「……なんだ、これ?」
ロキがさらに樹へ近づき、その光る葉脈を凝視する。
そこに浮かび上がっていたのは、
古代のルーン文字、複雑に絡み合う神代の術式、極限まで圧縮された魔導式、
そして、世界を構成する法則そのものを記述したような、
ロキですら一目では理解しきれない高度な理論の羅列だった。
それは、まるで生命の樹そのものが、ルシウスから受け取った膨大な「魔導」という名の知識を、
新たな生命情報として自身の内部へ組み込み始めているかのような光景だった。
ロキは吸い寄せられるように、その光る葉の一枚にそっと指先を触れた。
瞬間、ロキの意識の奥深くに、とてつもない情報量が雷のように流れ込んできた。
「ぐっ……!?」
ロキは頭を抱えて膝をつきかけた。
流れ込んできたのは、単なる魔法の詠唱や簡単な魔力の使い方ではない。
ルシウスが何百年という気の遠くなるような年月をかけ、
世界の構造を観察し、分解し、理解し、再構築するために築き上げてきた、
圧倒的な知識体系そのものだった。
神代の術式すら解析し、人間でありながら神々の領域へと到達した男が血みどろになって蓄積してきた叡智。
かつて神代の時代、生命の樹を維持するための水脈には、知恵と知識を司る「ミーミルの泉」が含まれており、樹に知性を与えていた。
しかし、神々が滅びた今、その泉はもう存在しない。
ルシウスがすべてを明け渡したその「魔導の知識」が、
皮肉にも失われたミーミルの泉が担っていた役割を、
神代とはまったく異なる新しい形で補完し始めていたのだ。
フェイが「生命」を与え、ルシウスが「知恵」を与えた。
二人の行為によって、神代に多数の神々で構成されていた生命の樹の循環が、たった二人によって別の形へと再構築されようとしている。
ロキは頭痛に耐えながら、流れ込んでくるその膨大な理論の渦を必死に解析した。
そして、生命の樹がただルシウスの知識をロキへ示しているだけではないことに気付いた。
樹の中に残る微かな「意思」のようなものが、このルシウスの膨大な知識を使って、
ある一つの答えへ辿り着くための演算を、ロキに求めているように感じられた。
まるで、「これを使え」と要求しているように。
ロキは、呼吸を荒くしながら生命の樹の巨大な幹を見上げた。
「……僕に、これを使えって?」
ロキは再び葉脈に現れている術式や法則の羅列へと視線を戻し、ルシウスの知識と自身の神の視点をもって、その意味を必死に追っていった。
そこには、三つの要素が複雑に絡み合っていた。
そこには、
生命の樹と完全に融合したフェイの生命力、
ルシウスから与えられた世界の理を書き換えるほどの魔導知識、
そして今まさに新しく成立しようとしている生命循環の構造、
その三つが複雑に絡み合っていた。
この三つを完璧に組み合わせ、理論を極限まで最適化できれば……
現在の「フェイ=生命の樹」という完全融合状態から、何らかの形でフェイという個体の意識や魂を再び分離し、外へ引き戻せる可能性を示す「道」が、情報の中に微かに見え隠れしていた。
「……!」
もちろん、この段階でその方法が完成しているわけではない。
ルシウスの知識がどれほど膨大でも、ロキがどれほど神の目を持っていようと、まだ完全には分からない。
成功する保証などどこにもない。
もし引き戻せたとしても、フェイが以前と同じ姿や記憶、人格を持って戻ってこられる保証もなかった。
それでも
完全に閉ざされ、「不可能」だと思われていた絶望の壁に、初めて極細の亀裂が走ったのだ。
ルシウスが、「フェイを守れなかった力などいらない」と明け渡した、その魔導こそが。
結果として、フェイを取り戻すための、たった一つの「鍵」になろうとしていた。
ロキは葉脈に浮かび上がる術式をじっと追いながら、赤い瞳を鋭く細めた。
そして、重い沈黙の後に、ふっと息を吐き出して口の端を上げた。
「……これは」
少しの間を置き、ロキは確かな手応えを感じて呟いた。
「ワンチャン、いけるかも」
傍らで心配そうに見守っていたロスカが、その言葉に驚いて黄金の瞳を大きく見開いた。




