第92段階:すべてを明け渡す
夜の森に、重く冷たい静寂が降りていた。
フェイの姿を完全に飲み込んだ生命の樹は、淡い光を放ちながらただそこにある。
ルシウスは巨大な幹に両手を押し当てたまま、身じろぎ一つしなかった。
少し離れた場所では、駆けつけたカシアンがその背中を見つめている。
安易な慰めも、悲しみを吐露する言葉もなかった。
ただ、口を開くことすらできないほどの喪失が、その場を支配していた。
ルシウスは樹の内部へ自らの意識と魔力を潜り込ませようと、何度も干渉を試みていた。
しかし、フェイを取り込んだ生命の樹は、外部からの接触を完全に拒絶している。
彼女の魂に触れるどころか、その気配の端を掴むことすら許されない。
ルシウスの手とフェイとの間には、絶対的な壁が立ちはだかっていた。
しばらくの沈黙の後、ルシウスは不意に干渉をやめた。
そして、生命の樹の幹に手を当てたまま、自らの内にある魔力の堰を完全に解き放った。
それは、これまで世界の命脈を保つために行っていた、計算された魔力の「供給」ではない。
自分という存在を形作っている魔力を、一滴残らず生命の樹へ明け渡そうとする行為だった。
「全て。くれてやる」
低く、どこまでも研ぎ澄まされた声が響く。
ルシウスの身体から膨大な魔力が解放され、生命の樹とその周囲が淡い紫色の光に包まれていく。
だが、ルシウスが生命の樹へ与えようとしていたのは、単なる魔力だけではなかった。
魔導士として生きてきた何百年という長い年月の中で、
学び、解析し、理解し、自らのものとしてきた「魔導」そのものを明け渡そうとしていた。
世界を構成する法則。
魔力の複雑な構造。
数え切れないほどの術式。
魔法を根源から分解し、再構築するための理論。
神代の秘術を含め、これまで解析してきた膨大な魔導知識。
そのすべてを織り上げ、ルシウス自身が築き上げた魔導体系。
彼の内に刻み込まれたそれらの知がほどけ、膨大な魔力と共に生命の樹へと流れ込んでいく。
かつて神代の生命の樹は、多くの神々が分け与えた力を宿す水によって維持されていた。
その中には、知恵と知識を湛えた神界の泉もあった。
今、ルシウスから流れ込む膨大な知と魔導は、失われたその源泉を埋めるかのように、生命の樹の深部へと染み渡っていく。
フェイが自らの生命を差し出した樹へ、ルシウスは数百年をかけて築き上げた知と魔導を与えていた。
だが、ルシウス自身にそんな意図はなかった。
世界を再構築するためでも、救うためでもない。
フェイを失った今、自分がこれまで積み上げてきた力に、何の意味も見出せなくなった。
ただ、それだけだった。
背後で見守っていたカシアンは、最初、主が何をしているのか理解できなかった。
フェイを取り戻すため、さらに無茶な魔力を叩き込んでいるのだと思った。
しかし、淡い紫色の光の中で、ルシウスの魔導回路そのものがほどけ、彼を魔導王たらしめている根幹までが樹へ流れ込んでいくのを感じ取り、カシアンの顔色が変わった。
「閣下?」
これは単なる魔力の枯渇ではない。
魔導士としての力そのものを、根こそぎ手放そうとしている。
「おやめください、閣下!」
「それをすれば、貴方は…
魔導王ではなくなってしまいます!」
必死の制止にも、ルシウスは生命の樹から手を離さなかった。
振り返ることもなく、ただ淡々と告げる。
「一人の女も守れない力など、私にはいらない」
カシアンは息を呑み、それでも主を止めようと一歩を踏み出した。
「ならば、私も共に」
その言葉を、ルシウスの声が鋭く遮った。
「誰が魔導宮を守るのだ」
カシアンの足が止まった。
自らすべてを捨てようとしていながら、ルシウスはその後のことまで考えていた。
フェイが愛し、守ろうとした魔導宮を、カシアンに託そうとしている。
ここで自分まで力を失えば、魔導宮を守る者がいなくなる。
主を止めたい。それでも、その命令に背くことはできなかった。
カシアンは血が滲むほど強く拳を握り締め、それ以上前へ進むことを堪えた。
ルシウスの中から、魔導士として積み重ねてきたすべてが生命の樹へと流れていく。
それに伴い、彼の身体にも変化が現れ始めた。
夜の闇に溶け込むようだった漆黒の髪から、徐々に色が失われていく。
淡い紫色の光に照らされながら、黒は少しずつ白銀へと変わり、やがてその色は髪全体へと広がっていった。
そして、最後の魔力が生命の樹へ流れ込んだ。
樹を包んでいた淡い紫色の光が、夜気の中へ静かに溶けて消えていく。
カシアンが見つめる前で、ルシウスの髪は漆黒から、完全な白髪へと変わっていた。
何百年もの間、世界最強の魔導士として君臨してきた男から、魔導王としての力は失われていた。
それでも、ルシウスは生命の樹の前から一歩も動かなかった。
フェイが消えた場所に掌を当てたまま、冷たい樹皮の向こうを見つめている。
もう、内部を探る魔力すらない。
樹の中で何が起きているのか、フェイがどうなったのか、それを知る術さえ自ら手放した。
それでもルシウスは手を離さなかった。
まるで、その向こうにいるフェイに触れようとするように。




