第89段階:命の代償
窓辺で真実の一端に触れたフェイは、そのまま自室に留まっていることができなかった。
神々が滅びた後の世界で、ルシウスがたった一人で生命の樹を支え続けている。
その途方もない事実を認識した瞬間から、フェイの思考はさらに残酷な先へと進んでいた。
ルシウスが自らの魔力によって枯れゆく世界を強引に維持している。
だとすれば、その状態はあとどれくらい続けられるのか。
生命を司り、かつてこの巨大な樹の循環を直接管理していた女神だからこそ、フェイの意識は自然とそこへ向かわざるを得なかった。
夜の魔導宮は静まり返っていた。
フェイは誰にも気づかれることなく自室を抜け出し、冷たい石造りの回廊を早足で進んだ。
向かった先は、魔導宮の中心にそびえる生命の樹の根元。
これまでも散歩の途中で幾度となく見上げてきた場所だが、神代の記憶と女神としての感覚を取り戻してから、直接この樹と対峙するのは初めてだった。
夜闇の中でも淡い光を帯びてそびえ立つ巨大な幹は、見上げる者を圧倒するような威容を誇っている。
しかし今のフェイには、その雄大な外見とは裏腹の
痛々しいまでの実態がはっきりと見えていた。
フェイはゆっくりと歩み寄り、ごつごつとした分厚い樹皮にそっと両手を這わせた。
触れた瞬間、意識が樹の内部を巡る生命の循環へと直接繋がった。
かつてフェイ自身が神界の水を運び、潤していた本来の豊潤な生命のうねり。
それは、もう、そこには残っていない。
神々という莫大な水源を失った時点で、この樹は本来ならとっくに枯死し、大地もとうの昔に灰へと帰していたはずなのだ。
今、樹の内部を駆け巡っているのは、大地の底から突き上げるように注ぎ込まれるルシウスの魔力だった。
枯れゆく巨大な器へ、自身の力だけを頼りに絶え間なくエネルギーを押し込み、無理やり形を保たせている。
それは「生かしている」というより、死に向かう世界そのものを数百年間、強引に延命し続けている状態だった。
フェイは静かに目を閉じ、幹の奥深くへさらに意識を沈めていく。
生命を司る女神であった彼女の感覚は、ルシウスの魔力がどのように樹へ作用し、どれほどの負荷を生み出しているのかを精密に読み取っていった。
やがて、幹に触れているフェイの指先が微かに震え始めた。
生命の樹の限界が近いことはすぐに分かった。
だが、それ以上にフェイを戦慄させたのは、ルシウスから流れ込んでくる力の正体だった。
それは、純粋な魔力だけではない。
魔力の奔流に混ざって、生々しく、ひどく温かなものが一緒に流れ込んでいる。
生命の在り方を熟知しているフェイには、それが何であるか痛いほど分かった。
ルシウスは魔力を供給するだけでは足りず、自らの生命力そのものまで削り、樹の根へ注ぎ込み続けていたのだ。
その事実を認識した瞬間、執務室での出来事がフェイの脳裏で一本の線として繋がった。
ルシウスのローブの袖を掴み、その胸に頬を預けた時。
フェイの肩に添えられていた彼の大きな手が、ごく僅かに痙攣するように震えたこと。
そして、彼の魔力の奥底から何かが絶えず抜け落ち続けているような、不穏な歪みを感じ取ったこと。
『今、手が……震えて』
『何でもない』
いつもと変わらない声で、彼はそう答えた。
あれは単なる疲労ではなかった。
彼の生命そのものが削られ、限界を迎えつつある肉体が上げていた悲鳴だったのだ。
それを彼は何百年も前から自覚しながら、誰にも悟られないよう隠し続けてきた。
フェイは樹に額を押し当てたまま、声にならない息を吐いた。
生命の樹へさらに深く同調し、現在の循環量、樹そのものの衰弱具合、そしてルシウスから供給される力との均衡を測る。
この延命が永遠に続くはずがないことは明らかだった。
世界を構成する魔導師たちの間では、この世界はあと五十年持つかどうかだと囁かれているのを聞いたことがある。
フェイも最初は、その程度の時間は残されているのだろうかと漠然と考えていた。
しかし、樹の深淵を読み解いたフェイの感覚が、その推測を残酷に打ち砕いた。
違う。
そんなには持たない。
生命の樹という器だけを見れば、まだ数十年は耐えられるように見えるかもしれない。
だが、先に限界を迎えるのは……
その器を満たし続けている側だ。
樹を支えているルシウスの命の方が、先に尽きる。
世界の残り時間を決めているのは、生命の樹の寿命ではない。
ルシウスという一人の人間が、あとどれだけ己の命をすり減らしながら耐えられるか、その一点にかかっていた。
五十年どころではない。
フェイが思っていたよりも、ずっと時間は残されていなかった。
フェイは泣き崩れることもできず、ただ言葉を失い、幹に手をついたまま立ち尽くした。
世界中の人間から「神を殺した恐ろしい魔導王」と畏怖されているあの不器用な男は、
実際には、その世界を一日でも長く滅びから遠ざけるために、誰にも告げず自分自身を削り続けていた。
ほんの数時間前、執務室で見た彼の姿が脳裏を過る。
山のように積まれた書類を片付けながら、彼は平然と言っていた。
『放置したところで、勝手に減ってくれるわけではないからな』
あの何でもない日常の風景。
十五時になれば温かい紅茶を淹れ、フェイの話に短く相槌を打つ彼の姿。
その裏側で、彼は自分の命が確実に削られていくことを知りながら、今日も当たり前のように執務机へ向かっていたのだ。
その落差があまりにも大きく、フェイの胸が締め付けられた。
神々を滅ぼしたあの日から、
誰にも知られることなくどれほどの重荷を一人で背負ってきたのだろう。
その時だった。
手のひらを当てていた生命の樹の幹の内部で、重々しい地鳴りのような鼓動が響いた。
それは物理的な揺れではなく、魔力と生命の循環そのものが引き起こした脈動だった。
フェイは、はっとして顔を上げた。
生命の樹が、フェイの存在に反応している。
人間のように言葉を発するわけではない。
しかし、生命を司る女神であり、かつてこの樹に神界の水を運び続けていた本来の管理者だからこそ、その意思に近いものを感覚として受け取ることができた。
フェイの手の下で、今にも途絶えそうに弱っていた生命の奔流が、一瞬だけ大きく脈打った。
長い間失われていたものが戻ってきたことを、樹そのものが認識したかのような反応だった。
ドクン、とフェイの心臓に直接響くような重い波紋が広がる。
その瞬間、フェイは気づいた。
生命の樹が、自分に何かを求めている。
飢えた獣のような激しさではない。
ただ、長い間失っていたものをようやく見つけたかのような、強い渇望がそこにはあった。
樹の根源がフェイという存在に触れ、その内側に眠る力へ反応している。
それが具体的に何を意味するのか、今のフェイはまだ読み取ろうとはしなかった。
ただ、生命の樹から手を離すこともできず、夜の冷気の中でその脈動を受け止め続けていた。
ルシウスの命を削りながら流れ込む力と、フェイへ向けられる生命の樹の鼓動。
二つの巨大な力に挟まれながら、フェイは自分が戻ってきたこの世界が、すでに引き返せない淵に立っていることを静かに悟っていた。




