第88段階:魔力の源流
その夜
フェイは薄暗い自室の窓辺に立ち、冷たいガラスに額を寄せていた。
夜の闇の向こうには、魔導宮の象徴でもある巨大な生命の樹が静かにそびえ立っている。
これまでにも何度となく眺めてきた景色だ。
だが、神代の記憶と女神としての感覚を取り戻した今のフェイの目には、まったく違ったものとして映っていた。
生命の樹からは、膨大で純粋な力が大地へと絶え間なく流れ出している。
その力は魔導宮の森へ、地下の水脈へ、
さらにその先にある人々の暮らす広大な土地へと網の目のように広がり
衰退しつつある世界中の生命を、今もぎりぎりのところで繋ぎ止めていた。
神代の時代、人間界にある生命の樹を管理するのはフェイの役目だった。
だが、あの巨大な樹を維持するためのエネルギーを、フェイ一人の神力で供給していたわけではない。
生命の樹は自力だけで永続できる存在ではなく、神界を巡る特別な水を必要としていた。
かつてのフェイは、定期的に神界の泉や川へ赴いていた。
ノルンたちに縁のある神聖なウルズの泉や、オーディンが知恵を求めたミーミルの泉。
そうした水脈には、神界に住まう数多の神々から少しずつ分け与えられた力や生命のエネルギーが、豊かに溶け込んでいた。
フェイは器にその水を汲み、人間界まで運んでは生命の樹の根元へ注いだ。
多くの神々が分け与えた力が神界の水へ集まり、フェイの手によって生命の樹へ届けられる。
神代の生命の樹は、そうした巨大な生命循環によって維持されていたのだ。
生命を司る女神として、フェイはその複雑で膨大な力の流れを誰よりも熟知していた。
だからこそ、今も生き続けている生命の樹が不可解だった。
もう神界は存在しない。
ウルズの泉もミーミルの泉も、神界を巡っていた豊かな水脈も失われている。
何より、生命の樹へ力を分け与えていた神々が、この世界にはもう存在しない。
本来であれば、生命の樹はとうの昔に枯れ果てているはずだった。
それなのに、ラグナロクから数百年という途方もない時を経た今も、
生命の樹は生き続け、人間界へ生命力を送り出している。
『今のいーちゃんなら、言わなくても自分で気付くか』
『この世界を……いや、何でもないよ』
神殿で別れ際にロキが残した言葉が、鮮明に脳裏を過った。
フェイは窓辺に立ったまま静かに目を閉じ、生命の樹の鼓動へと深く意識を同調させた。
樹から世界へと出ていく力ではなく、干上がるはずの生命の樹へ、今も絶えず注がれ続けている力の源流を辿る。
深く根を張った大地の奥、そのさらに深い場所へと感覚を潜らせていく。
やがて、途方もなく巨大な魔力の流れに行き当たった。
フェイの呼吸が、ぴたりと止まった。
その魔力は、あまりにも馴染みのあるものだった。
先ほど執務室で自分を抱いていた腕から感じたもの。
この一年間、毎日すぐ傍で当たり前のように感じてきた魔力。
フェイは震える睫毛を揺らし、ゆっくりと目を開けた。
枯れゆく生命の樹の根元へ、大地の奥底から絶え間なく流れ込んでいるその魔力は
――間違いなくルシウスのものだった。
フェイの顔から、すっと血の気が引いた。
かつて生命の樹を管理していたからこそ分かる。
あの樹を維持し、世界へ生命を循環させるためには、本来どれほど途方もない力が必要なのか。
神代では、一柱の神が生命の樹を支えていたわけではない。
多くの神々がそれぞれに力を分け与え、それらが神界の泉や水脈へ集まることで、ようやく賄えていたほどのものだ。
その神々は、もういない。
フェイは生命の樹へ流れ込む魔力を、もう一度確かめるように辿った。
どこまで辿っても、同じだった。
ルシウスの魔力しかない。
かつて数多の神々が分け合っていたものを、今はたった一人の人間が担っている。
それも、ラグナロクが終わってから数百年もの間。
フェイの脳裏に、先ほど執務室でルシウスに抱きしめられた時の記憶が蘇った。
肩に添えられた彼の手が、ごく僅かに痙攣するように震えたこと。
そして、彼の広大な魔力の奥底から、何かが絶えず流れ出しているような、不穏な「歪み」を感じたこと。
「これが、さっき感じたもの……?」
フェイの唇から、掠れた声がこぼれた。
神々が滅びた後、ルシウスはたった一人で生命の樹を支え続けてきた。
どれほど強大な魔導王であろうと、本来は数多の神々によって支えられていたものを、一人で何百年も背負うなど尋常ではない。
その重さを、かつて生命の樹を管理していたフェイは知っている。
フェイは冷たい窓ガラスに手をついたまま、眼下にそびえる生命の樹を見つめた。
その根の遥か奥では今も、ルシウスの魔力が静かに流れ続けていた。




