第87段階:変わらない温度
魔導宮へ帰還した後、フェイは一度自室へと戻った。
エマに着替えを手伝ってもらい、ガロンが急いで用意してくれた温かいスープを少しだけ口にしたものの、どうしてもベッドで休む気にはなれなかった。
目を閉じれば……
花飾りを編んで笑う神々の顔と、若き日のルシウスが血に塗れて戦う凄惨な姿が、
波のように交互に押し寄せてくる。
フェイはしばらく天蓋を見上げていたが、やがて意を決して立ち上がり、自室の扉を開けた。
向かった先は、ルシウスの執務室だった。
分厚い木の扉をノックすると、すぐに中から聞き慣れた低い声が返ってくる。
フェイが静かに扉を開けると、ルシウスはすでにいつもの執務机に向かっていた。
神代の隠された真実を知り、世界の終焉を共に追体験したばかりのはずだ。
だが、彼の机の上には相変わらず未処理の書類が山のように積まれている。
その姿があまりにも普段通りすぎて、フェイは張り詰めていた心が少しだけ解けるのを感じた。
「もう仕事してるの?」
「放置したところで、勝手に減ってくれるわけではないからな」
「今日くらい、ゆっくり休めばいいのに」
「それはフェイも同じだろう」
真っ当な正論を返され、フェイは少しだけ唇を尖らせた。
ルシウスは手にしていた書類を置き、羽ペンの先をインク壺に沈める。
そして、ようやくフェイの方へと視線を向けた。
「どうした」
「……ちょっと、ルシと話したくて」
ルシウスは野暮な理由を尋ねることなく、来客用のソファへ視線を促した。
フェイもそれに従って柔らかいクッションへ腰を下ろしたが、今日はいつものように自然と言葉を紡ぐことができなかった。
この部屋には、もう数え切れないほど足を運んでいる。
本を読んだり、どうでもいい話を聞かせたり、十五時になれば一緒にお茶を飲んだり。
それなのに今日は、ルシウスの端正な横顔を見つめると、どうしても記憶の中の彼が二重に重なってしまう。
姉のように慕っていたウルズたちと刃を交え、トールと死闘を繰り広げ、最後には自らの手で彼らの命を断ち切った男。
思い出すだけで、胸の奥が抉られるように痛む。
神々を家族として愛していた以上、彼らの死を簡単に割り切れるはずがなかった。
だが、今目の前にいるのは、魔導王ではない。
この一年間、フェイが毎日顔を合わせてきたルシウスだった。
分からないことがあれば本を引いて教えてくれたし、温かい紅茶を一緒に飲んだ。
無愛想で言葉足らずだけれど、困った時や寂しい時には、必ず一番近くにいてくれた不器用な人。
過去の彼と、今の彼。
どちらも同じ一人の男だと頭では理解しているのに、追体験したばかりの感情のうねりが、まだうまく一つに馴染んでくれない。
そんなフェイの葛藤を知ってか知らずか、ルシウスの態度は驚くほど変わらなかった。
フェイを遠い過去の女神として特別扱いすることも、自分を救った恩人として不自然に距離を置くこともない。
いつもと同じ温度で、ただの「フェイ」として真っ直ぐに向き合ってくれている。
「ねえ、ルシ」
フェイは膝の上で両手をきゅっと握り合わせ、少し迷ってから口を開いた。
「私が神様だったって分かっても……本当に、今までと同じ?」
ルシウスは僅かに眉を寄せた。
「何が変わるというんだ」
「だって、自分でも知らなかったとはいえ、ずっと隠してたみたいになっちゃったし……」
「知らなかったものを、どうやって意図的に隠す」
「それは、そうなんだけど」
フェイが困ったように視線を落とすと、ルシウスは頬杖をつき、しばらく黙って彼女を見つめる。
そして、ひどく呆気なく言った。
「フェイはフェイだ。それ以外に何がある」
当然の事実を告げるようなその響きに、フェイは思わず顔を上げた。
かつて神であった事実も、失われた真名も、ルシウスにとっては目の前にいるフェイを別人として扱う理由にはならない。
その確固たる意志に触れ、胸の中に蟠っていた冷たい緊張が、春の雪解けのように溶けていく。
そして、今日一日で浴びるように見た記憶を思い返しているうち、フェイの胸の奥に、悲しみとは別のくすぐったいような感情が込み上げてきた。
野原で何度も指を焦がしながら魔法を練習していた少年。
人類の存亡を懸けて戦った青年。
そして、何百年もの時を経た今も、毎日同じ険しい顔で書類と格闘している男。
昔、遠くから『もっと上手になるといいね』と無邪気に応援していたあの少年が、まさかこんな形で自分の隣にいることになるなんて。
「小さい頃から、本当に全然笑わなかったんだね」
ルシウスが、今日初めて言葉に詰まった。
「……そこが気になったのか?」
「だって、泥だらけになってもずっと難しい顔して術式書いてるんだもん。今のルシと全然変わらないなぁって思って」
「他にもっと見るべき重要なものがいくらでもあっただろう」
「でも一番びっくりしたの、それかも。でも」
「なんだ」
「もっと、ルシが笑ったところ、見たい」
フェイが耐えきれずにくすくすと笑い声をこぼすと、ルシウスは心底呆れたように小さく息を吐き、僅かに目を細めた。
重く苦しい記憶を見てから、フェイが初めていつものように笑った。
その自然な笑顔を見て、ルシウスの張り詰めていた表情も、ほんの少しだけ柔らかく和らぐ。
フェイはソファから立ち上がり、執務机の傍へと歩いていった。
少しだけ迷った末、漆黒のローブの袖を、自分からそっと指先で掴む。
「今日は……少しだけ、こうしててもいい?」
ルシウスは袖を掴む小さな手元へ静かに視線を落とした後、何も言わずに椅子から立ち上がった。
次の瞬間、フェイの身体が、彼の大きな腕の中へ静かに包み込まれる。
すべてが解決したわけではない。
それでも今はただ、自分が決して一人ではないという確かな温もりだけを確かめたかった。
フェイはルシウスの胸元へ頬を預け、安堵と共にそっと目を閉じた。
しかし、しばらくして
フェイの肩へと添えられていたルシウスの手が、ごく僅かに、痙攣するように震えた。
「……ルシ?」
フェイがはっとして顔を上げると、ルシウスはすぐに腕を緩め、静かに距離を取った。
「どうした」
「今、手が……震えて」
「何でもない」
いつもと変わらない、平坦で冷徹な声だった。
だが、フェイはそこで初めて、言葉にできない妙な違和感を覚えた。
神代の記憶が戻ったことで蘇りつつある女神としての感覚が、ルシウスの魔力に潜む「歪み」を捉えていた。
彼の魔力量そのものは、相変わらず世界を傾けるほどに桁外れだ。
だが、その広大な魔力の奥底で、何かが絶えず流れ出し続けている。
まるで底なしの巨大な器から、見えない穴を通して、生命の根源に繋がる水が少しずつ抜け落ち続けているような、ひどく不穏な感覚。
フェイがその正体を問いただそうと口を開きかけた時、ルシウスは何事もなかったかのように執務机へと戻ってしまった。
「今日は休め。精神的に酷く疲労しているだろう」
「ルシもね」
「分かっている」
彼がこれ以上踏み込ませまいとする壁を作ったのを感じ、フェイはそれ以上の追及を諦めた。
ただ、部屋を出る直前に、一度だけ振り返る。
ルシウスはすでに羽ペンを取り、冷たい横顔で書類へ視線を落としている。
いつもと変わらない、見慣れたはずの姿。なのに今は、なぜかその広い背中が、どこか遠くへ消えてしまいそうに脆く見えた。




