第86段階:ただいま
荒廃した神殿に満ちていた重い沈黙は、フェイが自らの意思でルシウスの隣へ一歩を踏み出したことで、僅かに緩んだ。
千年以上もフェイを待ち続けてきたロスカは、その選択を黄金の瞳を閉じて静かに受け入れた。
崩れた柱に寄りかかっていたロキも、少しだけ不満そうに唇を尖らせてはいた。
だが、本気で引き止めようとはしなかった。
神代から続く大切な友人だからこそ、最後にはフェイ自身の選択を尊重したかったのだろう。
ルシウスの背後で一部始終を見届けていたカシアンは、小さく息を吐いて眼鏡の位置を直した。
「……本日は随分と、魔導宮の書庫にある歴史書を書き換える必要がありそうな一日でしたね」
彼らしい淡々とした一言に、張り詰めていた空気がほんの少しだけ和らいだ。
やがてフェイは、神殿を出ようとして足を止めた。
振り返り、静かに廃墟を見つめる。
ここは、かつて彼女が暮らしていた場所だった。
優しいフリッグがいた。
賢いウルズがいた。
明るいヴェルダンディがいた。
自分を守ってくれたスクルドがいた。
不器用なトールがいた。
一緒に笑ったロキがいた。
そして、傷ついたロスカと出会った。
フェイにとって、間違いなく最初の「家」だった場所。
今、そのほとんどは失われている。
それでも、ここで愛されていた記憶まで消えたわけではない。
フェイはしばらく神殿を見つめた後、隣に立つ男へ視線を向けた。
「……帰ろう、ルシ」
ルシウスは静かに頷いた。
その「帰る」という言葉が指している場所を、誰も聞き返さなかった。
フェイが今から帰る場所は、この神殿ではない。
今の彼女が暮らしている魔導宮だった。
一行が神殿を出ようとした、その時だった。
「あ、そういえば」
ロキが何かを思い出したように手を打った。フェイが振り返る。
「ひとつ、いーちゃんに伝え忘れてたことがあった」
「なに?」
「うーん……」
ロキは少し考えるような顔をした。
そしてフェイを見つめた後、隣に立つルシウスへ一瞬だけ視線を向ける。
「……でも、今のいーちゃんなら、言わなくても自分で気付くか」
フェイが首を傾げた。
「何に?」
ロキの笑みが、僅かに薄くなった。
「この世界を……いや、何でもないよ」
フェイの表情が変わった。
以前、魔導宮の花園でロキから告げられた言葉が蘇る。
『神のいないこの世界が、どうして今も存続できているのか。
その世界を維持しているのは誰なのか。きみは、知っておくべきだ』
あの時のフェイには、その意味がまったく分からなかった。
だが今は違う。神代の記憶が戻ったことで、かつて女神だった頃に持っていた感覚も、僅かずつ呼び起こされ始めている。
世界を巡る魔力。
大地に満ちる生命力。そ
して、生命の樹を中心として循環する巨大な力の流れ。
以前なら感じ取ることすらできなかったものが、今は微かに分かる。
「……どういう意味?」
しかし、ロキは答えなかった。
「僕が言っちゃったら、また僕の答えになっちゃうからね。自分で見て、自分で決めて」
「ロキ?」
「じゃあね、いーちゃん。また遊ぼう」
いつものようにヒラヒラと手を振る。
その身体が蜃気楼のように揺らぎ、やがて完全に消えた。
フェイはしばらく、ロキが消えた場所を見つめていた。
その隣でルシウスは何も言わない。
ただ、ロキが「世界を支えている者」について口にした瞬間だけ、紫水晶の瞳が僅かに揺れていた。
フェイは、それに気付かなかった。
「主」
今度はロスカが静かに進み出た。
「私はしばらく、こちらに残ります」
長い眠りから目覚めたばかりのロスカには、確認すべきことが残されていた。
荒廃した神殿や周辺の地脈、そして長い年月の間に変化した神界跡地の状態。
そのため、すぐには魔導宮へ同行できないという。
「お呼びいただければ、地の果てであろうといつでも馳せ参じます」
フェイは大きな白狼を見上げた。
もう、記憶を取り戻す前とは違う。
目の前にいるのは、森で偶然出会った不思議な白狼ではない。
かつて傷ついて倒れていたところを助けた、小さな白狼。
自らの血を分け与え、名前をつけた大切な眷属。
そして、自分がすべてを忘れた後も、千年以上にわたって待ち続けてくれた存在だった。
「また会える?」
「もちろんでございます」
ロスカは大きな頭をフェイの前へ下げた。
「今度こそ、何度でも」
フェイはその額に両手を添え、雪のように白く温かな毛並みをゆっくりと撫でた。
記憶の中にいる小さな白狼と、目の前にいる巨大なロスカ。
その二つの姿が、ようやく一つに重なっていく。
「またね、ロスカ」
「はい。主」
ロスカは静かに頭を垂れた。
ルシウスとカシアン、そしてフェイは転移魔法で魔導宮へ帰還した。
視界を包んだ光が消えると、目の前に見慣れた景色が現れた。
冷たい石造りの回廊。綺麗に手入れされた中庭。
慌ただしく行き交う使用人たち。
何も変わっていない。
それなのにフェイには、少しだけ違って見えた。
神代の壮麗な記憶を取り戻したからといって、魔導宮が色褪せて見えるわけではない。
むしろ逆だった。
かつてすべてを失った自分が、この場所で新しい日々を積み重ねてきた。
食事をして、本を読んで、誰かと話して、十五時になればルシウスとお茶を飲む。
そんな何でもない一年が、どれほど奇跡的で、かけがえのないものだったのか。
今になって、ようやく分かった。
「お帰りなさいませ、フェイ様!」
結界管理室の前で待っていたエマが、目に涙を浮かべながら駆け寄ってきた。
「ご無事で……本当によかったです」
「エマ……ごめんなさい。心配かけちゃった」
その奥から、今度は厨房のガロンが血相を変えて現れた。
「フェイ様! 突然お姿が見えなくなったと聞いて、本気で寿命が縮みましたよ」
「ご、ごめんなさい……」
ガロンは何か言いたげに眉を寄せたものの、フェイが無事であることを確かめると、深く息を吐いた。
「……まあ、ご無事ならそれで十分です。
それより、お腹は空いておりませんか?何か温かいものでも作りましょう」
フェイは目を丸くした後、小さく笑った。
結局、最初に心配するのは食事なのだ。
「うん。ちょっとお腹空いたかも」
「では、すぐにご用意します」
ようやく安心したように、ガロンの表情が緩んだ。
エマも涙を拭い、いつもの柔らかな笑顔を見せる。
「お帰りなさいませ、フェイ様」
その言葉が、フェイの胸の奥へ静かに染み込んでいった。
かつての神殿は、彼女の「過去の家」だった。
そして魔導宮は、すべてを失った彼女が、もう一度見つけた「今の家」だった。
フェイはエマとガロン、その向こうで安堵した表情を浮かべている使用人たちを見渡した。
最後に、傍らに立つルシウスを見る。
そして、心から微笑んだ。
「ただいま」




