第85段階:選びなおす未来(後編)
「いーちゃん、無理しなくてもいいよ」
ロキは昔と変わらない調子を少しだけ取り戻しながら、フェイへそっと右手を差し出した。
ただし、その子どものように柔らかな笑顔の奥には、どこか寂しげな色が滲んでいた。
「全部思い出したからって、そいつのところに戻らなきゃいけないわけじゃない」
ロキはルシウスをちらりと一瞥した。
ロキにとっても、ルシウスはトールやノルンを殺した人間であり、簡単に割り切ってすべてを水に流せる相手ではない。
それでも彼が何より優先したのは、フェイ自身がどうしたいのかということだった。
「そいつと一緒にいるのが辛いなら、僕とおいで」
ロキは差し出した手をそのままに、優しく笑う。
「今度は僕が、いーちゃんを連れてってあげるから」
それはかつて、神界という閉ざされた世界からフェイを外へ連れ出し、初めて人間の世界を見せてくれた時と、よく似た光景だった。
フェイは、差し出されたロキの手をじっと見つめた。
ロキと行けば、ルシウスから離れることができる。
血塗られたラグナロクの記憶や、神々を殺した男の隣にいるという残酷な現実から距離を置き、
かつて大切な友人だった存在と一緒に、何にも縛られず生きる道もある。
誰もフェイを責めない。
ロスカも、ロキも、ルシウスも、
彼女がどちらの道を選ぼうとも、その意思を受け入れる覚悟をしていた。
だからこそ、これは誰かへの義務でも、恩返しでも、運命でもない。
完全にフェイ自身の意思による選択だった。
フェイはしばらくロキの手を見つめた後、ゆっくりと顔を上げ、小さく、それでも確かな温もりを持って微笑んだ。
「……ありがとう、ロキ」
フェイは、その手を取らなかった。
代わりにゆっくりと振り返り、少し離れた場所に立つルシウスを見た。
ルシウスが自分の大切な家族を殺したという事実を、フェイも簡単に消化できたわけではない。
「仕方なかった」という便利な言葉だけで処理できるほど、彼女が神々へ抱いていた愛情は軽くなかった。
悲しい。今も胸が張り裂けそうに苦しい。
それでも、フェイには分かっていた。
あの恐ろしい戦争を始めたのは人間ではない。
ルシウスは生きるため、理不尽に殺されようとしていた人々を守るために戦った。
もし自分が当時の人間側に立たされていたなら、きっと同じように、大切な者を守るために戦っただろう。
何より、フェイが魔導宮で積み重ねてきたルシウスとの時間までが、過去を知ったことで嘘になるわけではない。
食堂で一緒に食事をしたこと。
十五時になると、仕事の手を止めて当然のように一緒にお茶を飲んだこと。
フェイが知らない本の世界をたくさん教えてもらったこと。
執務室のソファで何でもない会話を交わし、
気付けば彼の隣にいることが、自分にとって当たり前の日常になっていたこと。
それらは、かつての女神としての記憶とは関係なく、「今のフェイ」が自分自身で積み重ねてきた、何よりも大切な記憶だった。
フェイは迷いながらも、誰の言葉でもない、自分自身の気持ちを言葉にした。
「……ありがとう、ロキ。でも、私は……」
一度言葉に詰まり、小さく息を吸い込む。
そして、ルシウスの紫水晶の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ルシウスが嫌じゃなければ、一緒にいたい」
その言葉が響いた瞬間、ルシウスは完全に言葉を失った。
どんな事態にもほとんど迷うことなく答えを出してきた男が、この時ばかりは僅かに目を見開いたまま動けない。
フェイに許されたと思って安堵したのではない。
彼女が、神々を殺した自分の過去も、失われた家族への痛みも、
そのすべてを知った上で、それでもなお自分の隣を選んだという事実を、
ルシウスはただ重く受け止めていた。
やがて、ルシウスは静かに息を吐いた。
「……私が君を嫌だと思ったことなど、一度もない」
それだけだった。
しかしフェイには、それで十分だった。
ロスカは二人のやり取りを、何も言わず静かに見届けていた。
彼女が欲しかった答えは、ルシウスが「必ず主を幸せにする」と誓うことではない。
そんな未来を、誰かが保証することなどできない。
ただフェイが、自分自身で生きる場所を選ぶこと。
そしてルシウスもまた、罪悪感や恩義ではなく、自分自身の意思で彼女を求めること。
それを確認できたことで、ロスカは初めて、二人が共に歩くことを心から受け入れることができた。
ただし、ロスカはルシウスへ黄金の瞳を向け、最後に一言だけ告げた。
「魔導王。主を泣かせれば、次は私が貴方の敵になりますからね」
ルシウスは冗談として流さず、ロスカの目を真っ直ぐに見返した。
「……覚えておこう」
ロキだけは、行き場を失った右手をゆっくりと引っ込めると、少しだけ不満そうに唇を尖らせた。
「えー。僕としては、こっちに来てほしかったんだけどな」
そう零しながらも、フェイの決断を否定することはなかった。
「でも、いーちゃんが決めたなら仕方ないね」
どこか寂しげに、それでも昔と同じような優しい笑みを浮かべるロキに、フェイも小さく笑い返した。
そしてフェイは、ハープの椅子から立ち上がった。
誰かに促されることもなく、自分の足でルシウスの元へ歩いていく。
選ばれたからではない。
守られるべき存在だからでもない。
神だった自分が人間を選んだからでもない。
今ここにいるフェイ自身が、この人と共に生きたいと思ったから。
ルシウスの傍らまで辿り着くと、フェイは静かにその隣へ立った。
荒廃した神殿の崩れた天井から差し込む柔らかな光が、二人の姿を静かに照らしていた。




