第84段階:選びなおす未来(前編)
荒廃した神殿に、ひどく重く、息の詰まるような沈黙が満ちていた。
ハープを通じた神代の記憶が完全に途切れ、元の静寂が戻っても、誰もすぐに言葉を発することはできなかった。
フェイは古びたハープの前に座ったまま、焦点の定まらない瞳で宙を見つめていた。
自分がかつて女神であったこと、
自分を愛し育ててくれた神々がラグナロクという狂った戦争の中で死に絶えたこと、
そして自分自身が人間たちを守るために故郷を裏切り、神格も、記憶も、名前もすべてを捨てたこと。
その重すぎる事実を一度に知ってしまい、彼女の小さな身体は微かに震え、
感情の行き場を見失ったまま、ただ静かに涙を流し続けていた。
ルシウスもまた、これまでにないほどの巨大な衝撃に打たれ、言葉を失っていた。
自分がラグナロクを生き延び、最高神オーディンを打ち倒して人類を救えた背景には
フェイの命を懸けた裏切りと助力があった。
彼女は人間を守るために
愛する家族も、故郷も、神としての自分自身すらも犠牲にした。
しかも、その人間側の中心に立っていたのは、他でもないルシウス自身だった。
ルシウスの胸の中には、自分がフェイを殺してはいなかったという確かな安堵があった。
しかし同時に、自分たち人間を守るために彼女がすべてを失ったという残酷な事実が、重くのしかかっていた。
これまでと同じように、フェイを自分の傍へ置いていいのだろうか。
ルシウスが紫水晶の瞳を伏せ、沈思の底へ沈みかけた時だった。
「魔導王」
ロスカが、静かにルシウスとフェイの間へ進み出た。
千年以上もの間フェイに仕え、彼女が女神だった頃から現在に至るまで、その歩みを見守り続けてきた古き眷属。
ロスカの願いはただ一つ、主に幸せになってほしいということだけだった。
だからこそ、ロスカはここですべてを明確にし、二人自身に選ばせようとしていた。
「今まで貴方が愛していたのは、『過去を何も知らないフェイ様』でした。
しかし今は違います」
ロスカの黄金の瞳が、ルシウスを真っ直ぐに射抜く。
「主がかつて神であったことも、人間たちのために神々を裏切ったことも、
貴方を守るために呪具をすり替え、その結果としてすべてを失ったことも、貴方は知った。
もし、その事実を知ったことで生じた『恩義』や『罪悪感』から主を傍に置こうとしているのであれば、私は決して認めません」
ルシウスは動かなかった。ロスカはさらに厳しく言葉を続ける。
「主は、貴方に恩を返してもらうために生きているのではありません。罪悪感や責任感から主を愛するというのであれば、今ここで、主の手を離してください」
フェイが人間を救おうとしたのは、あくまで彼女自身が選んだ道だ。
その決断の責任までをルシウスが背負う必要はない。
だからこそロスカは、自分のせいでフェイがすべてを失ったからではなく、それらの事情をすべて取り払ってもなお、今ここにいるフェイと共に生きたいのかを問うていた。
ルシウスは、すぐには答えなかった。
彼にとって、フェイへの想いは過去を知ったからといって変わるようなものではない。
何も知らずに魔導宮へやって来て、
世界の何もかもを珍しそうに眺め、庭の植物が育つことに喜び、くだらないことで笑い
十五時になれば一緒にお茶を飲み、自分の隣で毎日を過ごしてきた「今のフェイ」を愛している。
過去を知ったことで、その気持ちそのものが揺らぐことはなかった。
しかし、彼には別の、あまりにも重い葛藤があった。
「私が彼女を想う気持ちに、罪悪感や恩義など混ざってはいない」
ルシウスは静かに、しかしはっきりと答えた。
「だが……私は実際に、ウルズ、ヴェルダンディ、スクルドをこの手で斬り捨てた。トールを殺したのも私だ。彼女が心から愛していた家族を、私は自分の手で何人も殺している」
ルシウスは、震えるフェイの背中を痛切な眼差しで見つめた。
フェイにとって、自分を見ることそのものが、家族を失ったラグナロクの記憶を呼び起こす苦痛になるのではないか。
それだけは、ルシウスにも決めることができない。
「だから、私の方から『これからも私の傍にいろ』と縛り付けることはできない。
もしフェイが、私から離れることを望むのであれば……私はそれを受け入れる」
それは、神殺しの魔導王が初めて見せた、
愛する者の意思を守るためならば、自らがどれほどの喪失を味わうことになっても受け入れるという覚悟だった。
ルシウスの答えを聞き届けたロスカは、次にフェイへと向き直った。
「主よ。過去を知った今でも、貴女はこの男と共にいたいと願いますか」
ロスカの声は、先ほどまでとは打って変わって、どこまでも優しかった。
「彼を見るたびに、ラグナロクで失った家族を思い出すかもしれません。彼は貴女が姉のように慕っていた三女神を殺し、トールを討ち、オーディンを倒して神々の時代を終わらせた張本人でもあります。
それでも、貴女は彼の隣にいたいのですか」
フェイが涙で濡れた顔を上げ、言葉を見つけられずに戸惑っていた、その時だった。
これまで静観していたロキが、崩れた柱からゆっくりと身体を起こし、フェイの前へ歩み寄った。




