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神を殺した魔導王は、花を咲かせる少女を拾った  作者: 名前はまだない
【第五章】失われた世界

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第83段階:ラグナロク

荒廃した神殿に響き渡っていたハープの旋律が、ふつりと途切れた。


フェイの手が弦から離れ、彼女は戸惑うように宙を見つめた。

神格を封印したあの瞬間に、それまでの記憶をすべて失った彼女には

これより先の神界がどうなったのかを思い出すことができない。


静寂が落ちた神殿の中で、ルシウスがゆっくりと目を伏せた。



「……ここから先は、私が知っている」



その低く落ち着いた声に、カシアンも静かに頷く。

二人はラグナロク最終局面の最前線に立ち、神界の最期を実際にその目で見届けた者たちだった。


ルシウスの紫水晶の瞳が、遠い過去を見るように細められる。



記憶の舞台は、崩壊しつつある大神殿。


最強の武神トールとの死闘を乗り越えた若き日のルシウスは

何本もの骨を折り、全身を神雷に焼かれ、魔力すら底を突きかけるほどの満身創痍となりながら、

ついに最高神オーディンと真正面から対峙していた。


玉座から立ち上がったオーディンは、ルシウスを見下ろしながら忌々しげに錫杖を鳴らした。


しゃらら、と澄んだ鐘の音が広間へ響き渡る。



本来であれば、その神代の精神干渉によってルシウスの自我も理性も一瞬で破壊されるはずだった。

しかし、何も起こらない。

ルシウスは歩みを止めることなく、無属性の魔力刃を展開しながらオーディンを真っ直ぐに睨み据えていた。



『……偽物か。あの裏切り者の小娘め』



オーディンが激しい怒りとともに吐き捨てたその言葉の意味を、当時のルシウスは理解していなかった。


現在の神殿で過去を思い返しながら

ルシウスは初めて、その時自分がどれほど危うい場所に立っていたのかを知った。


あの時、自分はオーディンが精神そのものを破壊する神具を持っていたことすら知らなかった。

もし錫杖が本物のままであれば、トールとの死闘を終えたばかりの自分は何の警戒もなくその力を受け

人類の戦いはそこで終わっていた可能性すらある。



それを防いでいたのは、フェイだった。



自らの故郷を追われ、オーディンに処刑される危険を承知しながら

彼女が錫杖をすり替えていたからこそ、ルシウスは正気のまま最高神の前に立つことができたのだ。


過去の大神殿では、オーディンとルシウスの思想が激しく衝突していた。


オーディンは絶大な神力を解放し、重力を歪め、空間そのものを引き裂きながら

人間という存在を底知れぬほどに侮蔑した。



『神に作られた分際で、創造主へ刃を向けることがどれほど愚かなことか、まだ理解できぬか』



迫り来る空間の断裂を間一髪で躱し、カシアンたちの援護魔法を背に受けながら

ルシウスは口元の血を拭った。



『だから何だ』


『貴様らの命は、我々が与えたものだ。我々の庇護下になければ生きられぬ泥人形に過ぎぬ』


『お前たちが我々を作ったというなら、作った命を勝手に捨てていい理由にはならない。我々が生きることに、お前たちの許可などいらない』



神が上に立ち、人間がその下で生かされる絶対的な支配こそが「秩序」だと信じるオーディン。


対してルシウスにとって、生きる権利は誰かから与えられるものではない。

たとえ神々によって作られた生命であろうと

一度この世界に生まれ、自ら考え、自らの意思で歩き始めた以上

その命をどう生きるのかを決めるのは本人自身だった。



二人の戦いは、もはや単なる魔力と神力のぶつかり合いではなかった。



創造した者には、創造された者の生死まで決める権利があるのか。

神の定めた秩序へ従うことこそが正しいのか。

それとも、生まれた命には、自らの未来を選ぶ権利があるのか。


相容れることのない二つの在り方そのものを懸けた戦いだった。



オーディンは神々の王に相応しい、多彩で圧倒的な権能を次々と振るった。

神雷が大神殿を砕き、重力が何倍にも膨れ上がってルシウスの身体を大理石の床へ叩きつけ

指先を僅かに動かすだけで空間そのものが鋭利な刃となって襲いかかる。


満身創痍のルシウスは幾度となく死の淵へ追いやられたが、それでも倒れなかった。


カシアンをはじめとする人間側の精鋭たちが命懸けで援護し

ルシウスは彼らが作り出した僅かな時間を使って、初めて目にする神代魔法を一つずつ解析していく。

受けるたびに構造を読み、次には防ぎ、その次には対抗術式を組み上げる。



戦いが続けば続くほど、人間側はオーディンへ適応していった。

数日たっても、1週間経っても、終わる気配はない。

その間にも人間たちは傷つき、倒れ、交代しながら戦い続け、得られた情報は即座に共有されていく。

昨日まで防げなかった神代魔法を、翌日には結界で受け止め、その次の日には逆に利用する。

オーディンが同じ技を二度見せるほど、人間側の対抗策は完成へ近付いていった。


最初は怒りに染まっていたオーディンの表情に、やがて明確な焦りが浮かび始める。

そして、その焦りは次第に、自分が本当に人間へ敗れるかもしれないという恐怖へと変わっていった。



その最終決戦の最中だった。


神界の別地点から、突如として強い神格反応が現れた。

ロスカが用意した、フェイの身代わりだった。


髪も、顔も、魔力の波長も、神格の残響までもが、かつて神界に存在した彼女と寸分違わない。

オーディンから見れば、裏切った少女本人が神界から逃亡しようとしているようにしか見えなかった。


その神格を感知した瞬間、オーディンが激昂する。



『あの女を逃がすな!』



戦場に残っていた天使や神兵たちへ、怒号が飛ぶ。



『我らを裏切り、人間界へ逃れようとする愚か者を今すぐ処刑しろ!』



激しい戦闘の合間、ルシウスは崩れゆく回廊の遥か向こうで、白金の髪を持つ一人の少女が神側の軍勢に包囲される姿を目にした。


無数の光槍が放たれる。

少女の小さな身体を、いくつもの槍が貫いた。


白い衣が赤く染まり、その身体は糸が切れたように崩れ落ちる。

直後、彼女が放っていた強い神格反応も、命の消失とともに完全に途絶えた。


当時のルシウスにとって、それは神々の内輪で何者かが処刑されたという程度の認識でしかなかった。

少女の名も、その罪も、自分とは何の関係もない。



しかし現在、フェイの記憶をすべて知ったルシウスには分かる。



あの白金の髪。

あの姿。

あの時、神兵に処刑された少女こそ、ロスカが用意した身代わりだったのだ。



(……あれだったのか)



記憶の中で倒れていく少女を見つめながら、ルシウスは息を呑んだ。


そして同時に、長く胸の底へ沈んでいた一つの恐ろしい疑念から、ようやく解放された。


ラグナロクで、自分は数え切れないほどの神々を殺した。

その中にフェイもいたのではないか。

自分自身の手で、まだ名前すら知らなかった彼女を殺していたのではないか。

その可能性を、ハープの記憶を見始めてからずっと恐れていた。


だが、違った。


本物のフェイは、それより前に神格を封じ、すでに神界から姿を消していた。


自分は、フェイを殺してはいなかった。




その事実に安堵する一方で、

彼女が自らの存在そのものを捨て、自分の死まで偽装しなければ生き延びられなかったという現実が

別の重さとなってルシウスの胸へ沈んでいく。


記憶の中の決戦は、ついに終局へ近付いていた。




オーディンは神々の王として最後まで圧倒的な力を見せた。

しかし、生まれながらに完成されていた彼に対し、ルシウスは戦っているその瞬間にも変化し続けている。


オーディンが一つの術式を破れば、次の術式が生まれる。


一度通用しなかった攻撃は二度と同じ形では使わず、神代の術式を解析しては人間の魔導へ取り込み

自らの戦い方そのものを更新し続ける。



やがて、ルシウスの無属性魔法がオーディンの防御を突破した。


神々の王が、初めて膝をつく。

オーディンは信じられないというように、自らの胸を貫いた魔力刃を見下ろした。



『なぜ……』



その声には、もはや王としての威厳よりも、理解できないものを前にした純粋な困惑が滲んでいた。



『なぜ、完全なる神が……脆弱な人間などに……』



ルシウスは荒い呼吸を繰り返しながら、崩れゆく最高神を静かに見下ろした。



『我々が神より優れていたわけではない』



オーディンが顔を上げる。



『お前たちが変わらず、我々が変わり続けた。ただ、それだけのことだ』



神々は強かった。


人間など比較にならないほどに。


だが、完成されていたが故に変わる必要を知らなかった神々に対し、人間は弱かったからこそ学び、失敗し、そのたびに自分たちを変え続けた。


その違いが、最後に勝敗を分けた。


オーディンの身体が淡い光の粒子となって崩れ始める。

最後まで、その表情から「人間に負けた」という事実への理解は得られないまま。


やがて神々の王は完全に消滅した。


最高神オーディンの死によって、人間という種を滅ぼすために始まったラグナロクは、事実上その決着を迎えた。





現在。


荒廃した神殿へ、重い静寂が戻っていた。


ルシウスはハープの前に座るフェイを静かに見つめていた。

自分がオーディンを倒し、人類の勝利を決定づけたあの日よりも前に

彼女はすでに神としての名前も、記憶も、家族も、故郷も、そのすべてを失っていた。


そして彼女がそれらを手放さなければならなかった理由の一つは

他でもない、自分たち人間を理不尽な滅びから救うためだった。


ルシウスは何も言えなかった。


感謝という言葉では、あまりにも軽い。

謝罪という言葉でも、何かが違う。


彼女自身が選んだことだと分かっているからこそ、

「自分たちのせいだ」と決めつけることすら、彼女の意思を否定するように思えた。


ただ、その紫水晶の瞳には、これまでとは明らかに違う感情が宿っていた。


フェイ自身もまた、失われていた自分の過去の重さを受け止めきれず

ハープの前で小さく肩を震わせている。


崩れた柱に寄りかかっていたロキも、いつもの無邪気な笑みを完全に消していた。

自分が冥界へ幽閉されていた間に、「いーちゃん」がどれほど多くのものを失い

どれほど大きな決断をしていたのかを、彼は今になって初めて知ったのだ。


そしてロスカだけが、そのすべてを知る者として、静かに黄金の瞳を閉じていた。

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