第82段階:女神の終焉
神代の記憶を共有する神殿の中で、ルシウスは過去の光景から目を離すことができなかった。
ラグナロクの最終局面、神界の防衛線を突破し、
最強の武神トールすらも打ち破った若き日のルシウスと人間側の精鋭たちは
ついに神々の本拠地である大神殿へと到達していた。
その同時刻、記憶の主である私は、戦火から遠く離れた別の神殿で、自らのすべてを捨てるための最後の時間を過ごそうとしていた。
『最後に、一曲だけ』
崩壊しつつある神界。
燃える空と遠くから響く戦闘の轟音の中で、私は古びたハープの弦に指を置いた。
静かに目を閉じ、旋律を奏で始める。
それは、私がこの神界で過ごしてきた途方もない時間を慈しむための、最後の手向けだった。
音色が響くたびに、愛しい記憶が次々と脳裏に蘇ってくる。
いつも優しく私の髪を整えてくれたフリッグの温かな手。
世界の知識を惜しみなく教えてくれたウルズの理知的な声。
私によく似合うと言って、色鮮やかな花飾りを編んでくれたヴェルダンディの笑顔。
オーディンに反逆しようとした私を、自らの危険も顧みずに守ってくれたスクルドの優しさ。
無口で不器用で、それでも私が困っている時には必ず助けてくれたトールの大きな背中。
くだらない悪戯をしては一緒に笑い転げた、ロキとの眩しい時間。
そして、傷ついて倒れていたところを救い、それからずっと私の傍にいてくれたロスカ。
もう、その多くが失われてしまった。
ハープを弾きながら、私の瞳から大粒の涙がとめどなく溢れ落ちた。
弦を弾く指先が震え、嗚咽が漏れる。
私は人間を守る道を選んだけれど、神々への未練がなくなったわけではない。
彼らは私を育ててくれた大切な家族であり、この神界は愛すべき故郷なのだ。
オーディンが下した人間を滅ぼすという決断は、絶対に許すことができない。
それでも、神々そのものや共に暮らした家族への深い愛情までが消え去ったわけではない。
だからこそ、その大切な記憶を自らの手で手放さなければならないことが、身を引き裂かれるほどに辛かった。
一方その頃、大神殿の広間では、ついに最高神オーディンと魔導王ルシウスが対峙していた。
折れた骨を魔力で繋ぎ止め、血に塗れた満身創痍のルシウスを見下ろし、オーディンは玉座から冷酷な侮蔑の視線を放った。
『……チッ。
神に作られた脆弱な存在が、あろうことか創造主へ刃を向けるなど。その思い上がり、決して許されるものではない』
オーディンの声には、神としての絶対的な威厳と、人間という種族に対する根深い嫌悪が満ちていた。
『身の程をわきまえよ。
お前たちは我々神々の庇護の下でのみ生きることを許された、出来損ないの泥人形に過ぎぬ』
しかし、ルシウスはどれほど傷ついていようと、その紫水晶の瞳から光を失うことはなかった。
『思い上がるな、神』
ルシウスの低く、しかしはっきりとした声が広間に響く。
『我々は神に反逆したのではない。
お前たちが先に我々を滅ぼそうとしたから、生きるために戦った。ただそれだけのことだ』
オーディンにとっての「秩序」とは、絶対的な神が上に立ち、人間がその支配下で生かされることだ。
だが、ルシウスにとっては違った。
そもそも人間が生きるために、誰かの許可など必要ない。
神々に作られた命であろうと、彼らは自らの足で立ち、自らの意思で歩み、自らの手で未来を切り拓いてきたのだ。
『愚かな。秩序を乱す害悪め、ここで完全に塵へ還してやろう』
『やれるものなら、やってみろ』
オーディンが神代の魔力を爆発させ、ルシウスが無属性の魔力刃を展開した、まさにその時。
私の最後の演奏が、静かに終わりを迎えた。
私はハープからゆっくりと手を離し、傍らに控えるロスカを見上げた。
ロスカの黄金の瞳には、深い悲哀が滲んでいる。
彼女は私へ、神格の封印を始めればもう二度と途中で止めることはできないと、最後の確認をするように告げた。
封印されるものは、神としての権能、神代の魔力、真名、神界との繋がり、そして神として生きてきたすべての記憶。
私は震える声で尋ねた。
『みんなのことを、本当に忘れちゃうの?』
『……はい』
『ロキのことも? トール様のことも?』
『……はい』
『……あなたのことも?』
ロスカは一瞬だけ言葉に詰まったが、決して嘘をつくことはなく、絞り出すように『はい』と答えた。
私は両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。
すべてを忘れてしまうことが、何よりも恐ろしかった。
それでも最後には、自分で決断しなければならない。
人間界には生命の樹が残っている。
神々が滅びれば、生命の樹へ神界の水を届ける者はいなくなる。
そして私が神として生き続ければ、オーディンの追手から逃げ切ることはできず
私が持つ生命を生み出す力が、新たな争いの火種になる可能性もある。
だから、女神である自分を、ここで完全に終わらせるのだ。
『お願い、ロスカ』
私のその言葉を合図に、ロスカが古い術式を起動した。
その瞬間、私の纏っていた白い神聖な衣装から、淡い光が抜け落ちていく。
白金の髪を飾っていた神代の装飾が砂のように崩れ去り、身体を包んでいた神としての輝きが急速に失われていった。
それと同時に、私の中から大切な記憶が一つずつ、確かな形を失って遠ざかっていく。
フリッグの優しい顔が思い出せなくなる。
ウルズの理知的な声が消える。
ヴェルダンディの楽しそうな笑顔がぼやける。
スクルドの手の温もりが分からなくなる。
トールの『……平気だ』という不器用な声も、霧の向こうへと遠ざかっていく。
最後まで私の中に残ろうと足掻いていたのは
ロキの無邪気な笑顔と、ロスカの真っ白な毛並みの記憶だった。
私は必死に、その記憶の端にすがりつこうとした。
『ロキ……』
『ロスカ……』
しかし、それすらも少しずつ意味を失い、名前と顔が結びつかなくなっていく。
記憶の海に沈んでいく中で、私は霞む視線をロスカへ向けた。
『あなたの名前だけは……忘れたくないな』
私のその言葉に、ロスカは泣かないように奥歯を噛み締め、耐えるような声で答えた。
『構いません。主がお忘れになっても……私が、ずっと覚えておりますから』
そして、完全に神格が封印される直前、私は自分自身の「真名」すらも喪失した。
自分が誰だったのか、ここで何をしているのか、それすらも分からなくなった。
神格が完全に封じられたその瞬間、神界から女神であった私の存在反応が完全に消滅した。
それと同時に、ロスカが用意した身代わりの器が、遠く離れた別の場所で私と同じ神格反応を放ち始める。
大神殿にいるオーディンから見れば、本物の私の気配がそちらへ移動したように感じられるはずだ。
これによってオーディンの目を欺き、ロスカは私を人間界へと逃がすのだ。
この時、私の中は真っ白だった。
自分の名前も、自分が神だったという事実も、目の前にいる巨大な白狼が誰なのかも分からない。
ただ、その黄金の瞳を持つ白狼を見ても、不思議と恐怖だけは感じなかった。
記憶はすべて失われても、魂の最も深い場所に「この白狼は絶対に私を傷つけない」という確かな温もりだけが残っていた。
そして大神殿では、ついにオーディンとルシウスの最終決戦の火蓋が切って落とされた。
ルシウスはまだ知らない。
ほんの少し離れた場所で、自分を生かし、その精神を守るために神々を裏切った一人の少女が
家族も、故郷も、名前も、そして自分自身が何者だったのかという記憶のすべてを失ったことを。
私もまた知らない。
今まさにオーディンと命を懸けて戦おうとしている紫水晶の瞳の青年が、かつて私が遠くからその成長を無邪気に喜び、守りたいと願ってすべてを捨てる理由となった、あの小さな人間であることを。
神界の崩壊が進み、神殿の天井が大きな音を立てて崩れ落ちる。
神格を失い、ただの脆弱な存在となった少女の身体は限界を迎え、ふつりと意識を手放した。
倒れ込む小さな身体を、ロスカが優しく、壊れ物を扱うようにその背に乗せる。
暗闇へと落ちていく意識の最下層で、名前も、それが持つ意味もすべて分からなくなってしまったはずの少女は、無意識のうちにその唇を動かし、たった一言だけを零した。
『……ロ、スカ……?』




