第81段階:女神だった私だけ
ロスカは、最悪の事態に備えて
「私と同じ存在反応を持つ人造の器」を密かに作り上げていたのだという。
それは単なる土や泥のゴーレムではない。
かつて私がロスカへ分け与えた生命の力、その根源的な残滓を利用して練り上げられた、
人造の生命体だった。
髪の色も、顔立ちも、身体も、声も、魔力の波長や神格の残響に至るまで
私と完全に同じであり、神々が見ても本人と誤認するほど精巧に作られている。
ただし、そこに本当の魂だけは存在しない。
『オーディンに、貴女が死んだと思わせます。この身代わりを使って』
しかし、それだけでは足りないのだとロスカは言った。
身代わりが死んだとしても、本人である私が神格を持ったまま存在し続けていれば、オーディンはいずれ私がまだ生きていることに気付いてしまう。
そこで必要になるのが、「神格そのものの封印」だった。
神格とは、単純な魔力量のことではない。
神としてのすべての記憶、神代の魔力、神々との繋がり、真名、
神界から存在を認識されるための情報、神としての権能、
そして過去から現在まで連続している神としての存在証明。
それらすべてを束ねた概念だった。
これを完全に封印すれば、私は神ではなくなり、オーディンの感知からも完全に消えることができる。
しかし、その代償として、私自身も自分が誰なのか、一切分からなくなる。
神界で過ごした日々。
いつも髪を整えてくれたフリッグ。
勉強を教えてくれたウルズ。
花飾りを作ってくれたヴェルダンディ。
私を守ってくれたスクルド。
無言で本を取ってくれたトール。
一緒に笑って走り回ったロキ。そ
して、いつも傍にいてくれたロスカ。
生命の樹の輝きも、自分自身の真名も、そのすべてを忘れる。
私はあまりの代償の重さに絶句し、その場に崩れ落ちそうになった。
ここは私の故郷だ。
私が生まれ、育った場所であり、大切な家族との思い出が詰まった世界だ。
もうそのほとんどが戦火によって失われ、彼ら自身も次々と命を落としてしまった。
それでも、私の中には確かな記憶として残っている。
その記憶まで、自ら捨てなければならない。
『私だけが、何もかも忘れて逃げていいの……?』
罪悪感と悲しみで、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
家族が血を流し、死んでいった。
それなのに、自分だけが何もかも忘れて生き延びるなんて、許されるのだろうか。
しかしロスカは私の前に跪き、その黄金の瞳で真っ直ぐに私を見据えた。
『主が生きることは、逃げることではありません。
貴女がここで死ねば、誰が人間界の生命の樹を守るのです。
神々が滅びゆく今、貴女の命の力だけが、世界を繋ぎ止める最後の希望なのです』
ロスカはそこで一度言葉を止めると、神獣としての威厳を僅かに崩し、震えるような声で続けた。
『それに……私は、貴女に生きていてほしい』
私は息を呑んだ。
『たとえ千の年を越えてでも、私は貴女の魂をお守りします。
貴女が私の名を忘れても、私が貴女を忘れることはありません。だから、どうか……生きてください』
それは、単なる眷属としての使命感ではなかった。
ロスカ自身の、私に対する純粋で切実な願いだった。
私はしばらく何も言えず、涙に滲んだ視界の向こうでロスカを見つめていた。
やがて涙を拭い、崩れゆく神界の空を見上げると、小さく、けれどはっきりと頷いた。
『……分かった』
ロスカの耳が僅かに動く。
『ただ、最後に一つだけ、やりたいことがあるの』
私はロスカと共に、昔から一番大切にしていた、あの神殿へ向かった。
現在、荒廃した神殿には、フェイが奏でるハープの旋律が今も静かに響き続けていた。
共有される記憶の中で、ルシウスは完全に言葉を失っていた。
彼は今、初めて知ったのだ。
なぜあの絶望的なラグナロクの最終決戦において、オーディンが持つあの恐ろしい精神干渉能力を、ただの一度も使用しなかったのかを。
当時のルシウスは、オーディンがそのような力を持っていること自体知らなかった。
自分がオーディンと戦い、最後まで正気を保っていられた背景には
自分の知らない場所で、フェイが神界を裏切り、自らの命を危険に晒してまで錫杖をすり替えていたという事実があった。
もしあの錫杖が本物のままだったなら。
トールとの死闘で満身創痍だった自分が、何の警戒もないまま精神干渉を受けていたなら。
そこでラグナロクは終わっていたのかもしれない。
ルシウスは無意識に拳を握った。
フェイは、誰にも知られることなく自分を守っていた。
しかもその代償として、彼女は生まれ育った神界を追われ
自分自身のすべてを捨てる決断まで迫られることになった。
(……私が、彼女のすべてを奪ったのか)
紫水晶の瞳が激しく揺れた。
だが、その考えが正しいのかどうかを確かめる暇もなく、記憶はなおも先へ進んでいく。
ロキもまた、普段の無邪気な笑顔を完全に消し去り、無言で記憶の情景を見つめていた。
彼はラグナロクが始まる前に冥界へ送られていたため、
自分がいない間にフェイがどれほど人間側へ加担し
どれほど大きな決断をしたのかを何も知らなかった。
自分が大切に思っていた「いーちゃん」が、人間を守るために
自らの故郷も、家族との思い出も、自分自身の名前さえも捨てようとしている。
ロキは何も言わなかった。
ただ、いつもの笑みだけが完全に消えていた。
過去。
ラグナロクの戦火によって、神界は崩壊しようとしていた。
遠くでは激しい戦闘の轟音が響き、空は不吉な赤に染まって燃えている。
神殿の天井は崩れかけ、かつて美しい花々が咲き乱れていた庭園も無惨に焼け焦げていた。
それでも、神殿の奥にある広い部屋の中央には、あの大きなハープだけが、奇跡的に無傷のまま残されていた。
私は最後に一度だけ、そのハープの前の椅子へ腰を下ろした。
傍らには、ロスカが静かに控えている。
『ロスカ』
私は震える声で呼びかけた。
『お願い。私を、忘れさせて』
ロスカはすぐには答えなかった。
黄金の瞳を伏せ、長い沈黙の末に、それでも受け入れられないというように僅かに首を振る。
私は無理に笑おうとしながら、続けた。
『神でいる限り、私は必ず見つかる。
それに……私が神のまま生きていれば、また誰かが私の力を巡って争うかもしれない』
声が震えた。
『だから、一度だけ死ぬの』
ぽろりと、堪えきれなかった涙が一滴だけハープの台座へ落ちた。
『女神だった私だけ』
私は震える両手を持ち上げ、そっとハープの弦へ指を置いた。
燃え盛る神界の空の下、愛した家族たちとの思い出をすべて胸に抱きながら、小さく呟いた。
『最後に、一曲だけ』




