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神を殺した魔導王は、花を咲かせる少女を拾った  作者: 名前はまだない
【第五章】失われた世界

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第80段階:偽りの錫杖

最強の武神トールとの死闘を終え、ルシウスの肉体は、立っていることすら不思議なほどに傷ついていた。

何本もの骨が折れ、神代の雷を浴びた全身には酷い火傷が刻まれ、その無尽蔵に思えた魔力すら大きく消耗している。

それでも彼は足を止めず、人間側の軍勢を率いて、ついに神々の本拠地たる大神殿を目前に捉えていた。


その頃、大広間の玉座に座る最高神オーディンは、トール敗北の報せを受けて激しい怒りに震えていた。


神界最強の武神が、人間の青年に正面から敗れ去った。

その事実を、神々の王であるオーディンは到底受け入れることができなかった。

彼の中で、このままでは本当にあの人間に神界を奪われる、自分自身すら倒されるかもしれないという、神として初めて抱く恐怖が、抑えきれない怒りへと変わっていた。



『今だ』



オーディンは玉座から立ち上がり、忌々しげに人間界へと続く大階段の方角を睨みつけた。



『今こそ、あの生意気な小僧の息の根を止める』



彼は、ルシウスがトールとの戦闘直後であり、満身創痍であることを正確に把握していた。

だからこそ、正面から戦って万が一の事態を招く前に

自らの傍らに置かれた錫杖の精神干渉能力によって、ルシウスの理性と人格を跡形もなく破壊し

完全に戦闘不能へ追い込もうと考えたのだ。


かつてテュールやブーリといった反対派の神々を一瞬で狂わせた、絶対的な力を持つ神具。

いかに魔法に長け、物理的な強さを持っていようと

精神まで神を超えたわけではあるまいと、オーディンは確信していた。


オーディンが錫杖を持ち上げると、しゃらら……と澄んだ鐘の音が鳴る。

そして、彼は杖の先端を大理石の床へ強く打ち付けた。


カンッ。


冷たく高い音が響き、神代の強力な精神干渉術が発動した。

本来であれば、その音を媒介としてルシウスの精神へ直接干渉し

認識、記憶、自我、理性を一瞬にして崩壊させるはずだった。


しかし、何も起こらなかった。


大階段を上ってくるルシウスは、歩みを止めるどころか、微かな揺らぎすら見せない。

彼は血を吐きながらも自分自身へ回復魔法をかけ、

折れた骨を魔力で固定し、裂けた傷を塞ぎ、神雷によって焼けた神経を強引に応急処置しながら

ゆっくりと、しかし確実に神々の本拠地へ近付いてくる。



オーディンは一瞬、何が起きたのか理解できなかった。



眉をひそめ、もう一度錫杖を床へ打ち鳴らす。

それでも何も起こらない。

三度目、さらに強く打ち付けても、ルシウスには一切の変化がなかった。

ルシウス自身は、自分が何らかの精神攻撃を受けていることすら理解しておらず

ただ遠くから微かな鐘の音が聞こえる程度にしか感じていないようだった。


オーディンの顔から、絶対的な王としての余裕が完全に消え失せた。


彼は信じられないものを見るように、手元の錫杖を見つめた。

そこで初めて、ごく微細な違和感に気付く。


手にした時の僅かな重量の違い。

魔力の流れ。

そして、内部に緻密に刻まれているはずの神代術式の欠落。


外見は完全に同じだった。しかし、中身が決定的に違っている。



『……偽物?』



その事実を認識した瞬間、オーディンの中で、神界を焼き尽くすほどの怒りが爆発した。



『誰だ……誰が私の錫杖を取り替えたッ!!』



神殿中を揺るがすほどの凄まじい怒号が響き渡り、近くに控えていた神官や兵たちは、恐怖に顔を引き攣らせてその場に平伏した。



『今すぐ見つけ出せ! 見つけ次第、その場で処刑しろ!』



オーディンは怒りに支配された頭の中で

自分の玉座へ近付き、錫杖をすり替える機会があった神々の顔を次々と思い浮かべた。


そして、一人の存在へ辿り着く。


普段は戦闘にも政治にも深く関わらず、ただ生命の樹を管理していた小さな神。

ロキといつも行動を共にしていた少女。

人間の滅亡を決定した会議でも明らかな不満を示し、反対派の神々が粛清された時には、誰よりも強く動揺していた存在。


さらに最近は、妙に人間側の戦況を気にかけていた。


オーディンの瞳に、これまでにないほど昏い殺意が宿った。



『……あの小娘か』



彼の脳裏に、白金の髪を持つ少女の姿が浮かぶ。



『ロキといつもつるんでいた、あの女か……!』



私は神界の別の場所で、空気を震わせるオーディンの怒号を聞いた。


その瞬間、身体の芯まで凍りついたように冷たくなった。


分かっていた。

神の目を誤魔化し続けることなど不可能であり、いつか必ず気付かれる時は来るのだと覚悟はしていた。それでも、実際にオーディンが私の裏切りへ辿り着き

その激しい怒りが神界を覆い尽くした瞬間

恐怖が一気に現実のものとなって襲いかかってきた。


錫杖のすり替えが知られた。


もう、この神界にはいられない。


捕まれば

テュールたちと同じように精神を破壊され、正気を失った姿を衆目に晒された後に殺されるか

あるいはそれ以上の残酷な処罰が待っている。

しかも今のオーディンは、最強の矛であったトールまで失ったことで完全に追い詰められ

その怒りは頂点に達していた。


私は震える足で駆け出し、必死に逃げようとした。


しかし、頭のどこか冷静な部分が、絶望的な事実を告げている。

神である限り、オーディンから完全に身を隠すことなどできはしないのだ。

神々は互いの神格や真名、魔力の性質を感知する繋がりを持っている。

どれほど遠くへ逃げようと、時間の問題で必ず見つかり、引きずり戻される。


行き場を失い、崩れた回廊の物陰で息を潜めていた私の前へ、音もなく白い影が降り立った。


ロスカだった。



『主』



ロスカは緊迫した声で告げた。



『このままでは、いずれ見つかります』


『分かってる。でも、どうすれば……逃げ場所なんて、どこにも……』



私が泣きそうな声で返すと、ロスカはしばらく重い沈黙を落とした。

やがて覚悟を決めたように、低く静かな声で言った。



『ならば一度、“神である貴女”に死んでいただきます』



私は、その言葉の意味が分からず、ただ呆然とロスカを見つめ返した。

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