第79段階:強さの極致
人間の絶滅を掲げる神々に対し、反旗を翻した人類の軍勢。
運命を司る三女神ノルンを打ち破り
ルシウス率いる精鋭部隊はついに神界の中枢深くへと足を踏み入れていた。
水盤を通して戦況を見つめていた私は、姉のように慕っていたウルズ、ヴェルダンディ、スクルドを失った悲しみに膝を折り、震える手で顔を覆っていた。
ルシウスが彼女たちに止めを刺す際、微かに『……すまない』と告げた声が
呪いのように耳に残っている。
しかし、戦争は止まらない。
私がどれほど泣いても、流れた血が消えることはない。
神殿の奥へ進むルシウスたちの前に、広大な石畳の広場で、一人の男が岩山のように立ち塞がった。
雷神にして、神界最強の武神、トール。
その姿を見た瞬間、私の胸はさらに深く抉られた。
無口で不器用で、いつもぶっきらぼうだったけれど、私が高い棚の本を取れずに背伸びをしていると、何も言わずに後ろから取って渡してくれた。
巨大な水瓶を二つ担いでいた彼に『重くない?』と聞いても、『……平気だ』としか答えなかった。
そして、あの忌まわしい会議の日
オーディンに反逆しようとした私から助けを求める視線を向けられながら
王に逆らう言葉を見つけられず、拳から血が滲むほど強く握りしめながら、ただ俯くことしかできなかった男。
彼は、狂信的なオーディンの傀儡としてそこに立っているのではない。
神界がここまで攻め込まれた以上、「武神として、自分が守るべき者たちの前に立つ」。
ただそれだけの極めて単純で、純粋な理由で、ルシウスの前に立ちはだかっていた。
彼は罠も、精神を壊すような搦め手も使わない。
『魔導王ルシウス』
戦場に響き渡る重く低い声。
トールは、ルシウスを侮蔑することも、人間だからと見下すこともなかった。
彼がここまで神界の防衛線を突破してきた事実と、その強さを、一人の戦士として明確に認めていた。
『ここから先へ進みたければ、俺を倒せ』
ルシウスもまた、目の前の神がこれまで戦ってきた傲慢な者たちとは異質であることを即座に理解した。
カシアンや魔導宮の精鋭たちが、ルシウスを援護しようと一斉に魔力を練り上げる。
しかし、トールが手にした神槌ミョルニルを軽く振るっただけで、広場に凄まじい雷と突風が吹き荒れた。
『ぐぅっ……!』
カシアンたちが防壁を展開するが、殺意のない、しかし圧倒的な「力」の波に呑まれ、戦闘圏外へと軽々と吹き飛ばされた。
『俺が戦うのは、魔導王だ』
トールは、ルシウスとの一対一を望んだ。
ルシウスは黙って無属性の魔力刃を展開し、それを受け入れた。
戦闘の序盤は、完全にトールが圧倒した。
ルシウスが放つ極限まで圧縮された魔力刃を、トールはミョルニルで正面から叩き砕く。
高度な対神術式も、トールの放つ規格外の雷と膨大な神力の前には、紙切れのように破られた。
ルシウスが速度で翻弄しようとしても、悠久の時を戦い抜いてきた武神の経験が、人間の僅かな重心の移動や呼吸から次の動きを完全に読み切る。
小細工が一切通用しない。
これまで戦場を支配してきたルシウスが、生まれて初めて「攻略法を考える以前に、純粋な力で押し潰される」という圧倒的な暴力を経験していた。
ミョルニルの一撃が掠るだけで骨が軋み、雷を浴びて血を吐き、ルシウスは何度も硬い石畳へと叩きつけられる。
水盤越しにそれを見ている私は、今度はルシウスが死んでしまうという恐怖に襲われ、声を殺して泣き叫んでいた。
しかし、トールが攻撃の手を緩めることはない。
それが戦場であり、目の前の人間を対等な敵として認めているからこそ、彼は一切の手加減をしなかった。
『人間。強さとは何だ』
雷鳴が轟く中、トールが問いかけた。
ルシウスは血を吐きながら立ち上がり、すぐには答えなかった。
トールにとっての「強さ」とは、生まれ持った圧倒的な破壊力だけではない。
守るべきものの前に、決して退かずに立ち続けること。
恐怖を感じても逃げないこと。
自分より強い相手がいようとも、戦わなければならない時に戦うこと。
トールは神として生まれ、最初から無敵の力を持っていた。
しかし、ロキが処罰されたあの日、私から助けを求められながらも王へ逆らうことができず、言葉を発することすらできないまま俯いてしまった。
戦場では何者も恐れなかった自分が、あの時だけは何もできなかった。
だからトールは痛いほど理解している。力が強いことと、本当に「強い」ことは違うのだと。
『俺はかつて、守るべき者の前で何もできなかった』
ミョルニルを振り下ろしながら、トールが静かに、ひどく苦しげに言葉をこぼした。
『力ならあった。それでも、動けなかった』
『あの日から俺は、自分が本当に強いのか分からなくなった』
その言葉を聞いた瞬間、私は水盤の前で涙を零した。
ロキが連行された日、自分の不甲斐なさに、床へ血が滴るほど拳を強く握りしめていたトールの姿が鮮明に蘇る。
彼はあの日からずっと、自分の弱さを悔い続けていたのだ。
何度倒されても、ルシウスは再び立ち上がる。
トールが怪訝そうに問う。
『なぜ立つ』
ルシウスは口元の血を拭い、静かにトールを見据えた。
自分が倒れれば、その後ろで気を失っているカシアンたちが殺される。
その先にいる人間たちも滅ぼされる。
だから立つ。
ただ、それだけだった。
そして、ルシウスの恐ろしさはここからだった。
最初は防ぐことすらできなかったミョルニルの一撃を、一度、二度、三度と受けるうちに
ルシウスはその軌道を学習し始めていた。
神代の雷の発生原理を解析し、自身の魔力で相殺する。
トールの筋肉の僅かな収縮、呼吸の間合い、重心の移動から、攻撃が来るコンマ一秒先を予測し、致命傷を避け始める。
トールはそれに気付き、戦いの中で初めて、口元に微かな笑みを浮かべた。
『……そういうことか』
神々は完成された存在だ。
トール自身も、生まれた時からこの強さだった。
しかし人間は違う。
戦いながら学び、敗北しながら強くなる。
数分前までできなかったことを、血を流しながら、今はできるようにしてみせる。
トールは、かつて私が人間について嬉しそうに語っていた言葉を思い出していた。
『できないところから、できるようになるんだもん』
『……お前たちは、恐ろしい生き物だな』
トールの声には、一切の侮蔑はなかった。
そこにあるのは、自らを凌駕しようとする戦士に対する、確かな武人としての敬意だった。
互いに満身創痍となり、勝負は最終局面へと突入した。
トールはミョルニルへ、自身に残るすべての神力と雷を一点に集中させる。
ルシウスもまた、自らの魔力を極限まで圧縮し、無属性の魔法刃を限界まで研ぎ澄ました。
真正面からの激突。
トールは最後まで小細工を使わず、ルシウスも逃げることなく、それに真っ向から応じた。
雷神の一撃と魔導王の魔法が正面衝突し、神界全体が揺れるほどの凄まじい衝撃波が吹き荒れた。
光が収まった後、広場に立っていたのはルシウスだった。
それは、単純な出力でルシウスがトールを上回ったからではない。
トールは「完成された強さの極致」。
ルシウスは「成長し続ける強さの極致」。
その僅かな差が、最後の最後でルシウスの刃をトールへと届かせたのだ。
胸を深く切り裂かれ、石畳に仰向けに倒れたトールは、自分を超えた人間を見て悔しがることはなかった。
むしろ、どこか満足そうに、静かに笑っていた。
『見事だ、魔導王』
息も絶え絶えに、トールが尋ねる。
『……一つだけ聞かせろ。お前にとって、強さとは何だ』
ルシウスは、息を切らしながらトールを見下ろし、淡々と答えた。
『知らん』
トールが僅かに目を見開く。
『そんなものを考えて強くなった覚えはない。ただ、私が倒れれば、後ろにいる者が死ぬ。
だから倒れない。それだけだ』
トールはしばらく沈黙した後、喉の奥で、心底愉快そうに笑った。
『……そうか。ならば、お前は強い』
トールの命の灯火が、今まさに消えようとしている。
私は水盤の前で、声も出せずに泣き崩れていた。
幼い頃から私を不器用に助けてくれたトール。
ロキを救えなかったことを、ずっと誰にも言えず後悔していたトール。
そして今、人間であるルシウスを対等な戦士として認め、正々堂々と戦い抜いて散っていくトール。
死の淵に沈みゆく意識の中で、トールはなぜか、私のことを思い出していた。
高い棚の本を取ろうと背伸びをしていた小さな私。巨大な水瓶を担ぐ彼に、『重くない?』と心配そうに聞いた少女の姿。
トールは、最後の息を吐き出すように、小さく呟いた。
『……平気だ』
ルシウスには、その言葉が何を意味しているのか分からなかっただろう。
しかし、水盤越しに聞いていた私には分かった。
あの日、彼が私へ返してくれた言葉と、まったく同じだったから。
私は水盤にすがりつき、声の限りに泣き叫んだ。
ルシウスは、息絶えたトールの亡骸に深く、静かに一礼した。
そして、彼が手放したミョルニルを奪うことも、戦利品として扱うこともせず、そっと彼の大きな手元へ戻してから、再び神界の奥へと歩き出した。




