第78段階:運命の三姉妹(後編)
『……なるほど。これは厄介ですね』
ヴェルダンディの拘束から抜け出したカシアンが、冷や汗を流しながらも冷静に戦況を分析していた。
『未来を見る者、現在を固定する者、過去を呼び戻す者。
三人とも強大ではありますが、本当に厄介なのは個々の能力ではありません。
三つの力が互いの欠点を完全に補っている』
カシアンのその言葉を皮切りに、人間側の戦術が大きく切り替わった。
三姉妹そのものを力で押し切るのではなく、三つの能力を同時に機能させないため、連携を崩す方針へ舵を切ったのだ。
カシアンが指揮を執ると、人間側の精鋭たちが一斉に何十、何百という異なる術式を、別々のタイミング、方向、属性で同時に発動した。
さらに一度放った魔法の術式を途中で組み替え、軌道や性質を絶えず変化させることで、未来そのものを意図的に枝分かれさせていく。
スクルドには未来が見える。
しかし、人間たちが選択を繰り返すたびに、一つだった未来は二つに、二つだった未来は四つに、さらに幾重にも枝分かれしていく。
未来を見通す力そのものが失われたわけではない。
ただ、目の前で発生する可能性があまりにも急速に増殖し始めたため、スクルド一人ではすべてを同時に選別し、姉たちへ伝え続けることができなくなっていった。
その僅かな綻びを、カシアンは見逃さなかった。
『今です』
ルシウスが即座に前線へと踏み込み、狙いをヴェルダンディへ定めた。
彼女が「現在」を固定するためには、固定する対象が今どのような状態にあるのかを確定させなければならない。
その仕組みに気付いたルシウスは、無属性魔法を応用し、自身を包む魔力構造を戦いながら絶えず書き換え始めた。
一瞬前と一瞬後で、彼の魔力の流れも術式の構造もまるで違う。
固定しようと認識した瞬間にはすでに次の状態へ変化しているため
ヴェルダンディは「固定すべき現在」を捉えきれず、初めて焦りの表情を浮かべた。
『……貴方、自分自身の術式を戦いながら書き換えているの?』
驚愕するヴェルダンディに対し、ルシウスは息一つ乱さず、淡々と返した。
『止められるなら、止められないものに変えればいい』
それはまさに、人間の「環境へ適応し、変化する」という性質そのものだった。
ヴェルダンディの拘束が破られたことで、三姉妹の連携に初めて大きな乱れが生じた。
スクルドは増殖し続ける未来の処理に追われ、ヴェルダンディはルシウスを固定できず、ウルズは姉妹へ次々と生じる損傷を過去の状態へ戻すため、休む間もなく神力を使い続けることになる。
それでも、ウルズは倒れなかった。
『何度でも戻すわ』
荒い息を吐きながらも、彼女が再び傷ついたヴェルダンディへ手を伸ばそうとする。
その瞬間、ルシウスは初めて攻撃の矛先をウルズ自身が展開している術式へ向けた。
彼女が過去の状態を現在へ呼び戻すためには、対象の現在と、その対象が持つ過去との間に魔力の経路を繋がなければならない。
ルシウスは戦いの中でその一瞬だけ現れる神力の流れを見抜き、既存の神代魔法にも人間の魔導体系にも存在しない無属性術式を、その場で組み上げ始めた。
完成した形を持つ魔法ではない。
発動している最中にもルシウス自身が構造を書き換え続けるため、神代の術式では解析することすら困難な、極めて不安定で異質な魔法だった。
その無属性の刃はウルズの身体ではなく、過去へ伸びていた神力の経路だけを正確に断ち切った。
『なっ……』
ウルズが初めて目を見開く。
過去そのものを消したわけではない。
ただ、そこへ手を伸ばすための術式を一時的に断たれたことで、傷ついた姉妹を元の状態へ戻すことができなくなったのだ。
スクルドの未来視が処理しきれないほど枝分かれし、ヴェルダンディの現在固定がルシウスの変化を捉えられず、ついにウルズの過去干渉まで封じられる。
完璧だった三姉妹の運命の防衛陣に、初めて決定的な亀裂が走った。
そこから戦況は一気に動いた。
人間側の精鋭たちは三姉妹を殺すことではなく、それぞれを引き離し、神力を消耗させることへ攻撃を集中させた。
カシアンが戦場全体を指揮し、次々と変化する術式でスクルドの未来視を撹乱する間に
ルシウスがヴェルダンディとウルズの干渉を封じ
他の魔導士たちが三姉妹の間へ結界を差し込んで連携を完全に断ち切っていく。
長い攻防の末、三姉妹はついに神力の大半を使い果たし、傷ついた身体で大階段へ膝をついた。
私は水盤の前で息を呑んだ。
もう戦えない。立ち上がることすらできない。
それでも三姉妹は命乞いをせず、ただ静かに、目の前に立つルシウスを見上げていた。
ウルズは荒い呼吸を整えながら、遠くにいる人間たちへ視線を向けた。
『……できないことを、できるようにする、か』
それは、かつて私が人間について嬉しそうに語った言葉だった。
ウルズは小さく笑い、どこか納得したように目を細めた。
『なるほど。あの子が、人間を好きになるわけね』
胸を抉られるような言葉だった。
ヴェルダンディも、傷だらけになった身体を支えながら姉の隣へ座り込んだ。
『ここまで来るとは、思わなかったわ』
その声に人間への憎しみはなかった。
ただ、自分たちが守ってきた世界が終わろうとしていることを受け入れ始めたような、静かな寂しさだけが滲んでいた。
そしてスクルドだけが、未来の奥深くに何かを見つけたように、ルシウスの顔をじっと見つめていた。
その瞳がほんの僅かに見開かれ、やがて彼女は、何かを悟ったように微笑んだ。
『……そう』
ルシウスが僅かに眉を寄せる。
スクルドはそれ以上何も説明せず、ただ穏やかな目で彼を見つめた。
『なら、これでいいのかもしれない』
ルシウスには、その言葉の意味など分からなかった。
彼はしばらく三姉妹を見下ろしていた。
ここで彼女たちを生かして進めば、神力を回復した後、再び人間側の前へ立ちはだかるかもしれない。
過去、現在、未来を操る三柱を敵地の中心に残す危険を、魔導王である彼が見過ごすはずもなかった。
それでも、ルシウスはすぐには魔法を放たなかった。
三姉妹が、これまで戦ってきた多くの神々とは違うことを理解していたからだ。
人間を侮蔑する言葉も、虐殺を喜ぶ様子もなかった。
ただ、それぞれが自分たちの守るべきもののために、敵として立ちはだかった。
やがてルシウスは静かに手を上げ、その掌に白銀の無属性魔法を集束させた。
『……すまない』
三姉妹の表情が僅かに変わった。
人間である彼が、神へ謝罪するなど誰も予想していなかったのだろう。
ルシウスは紫水晶の瞳を逸らさず、低く続けた。
『だが、私は人間を滅ぼさせるわけにはいかない』
ウルズはその言葉を聞き、静かに目を閉じた。
ヴェルダンディも抵抗しようとはしなかった。
スクルドだけは最後までルシウスを見つめながら、ほんの僅かに微笑んでいた。
『知っているわ』
その言葉が誰に向けられたものなのか、ルシウスには分からなかった。
次の瞬間、白銀の光が大階段を包み込んだ。
激しい轟音も、苦痛の絶叫もなかった。
ルシウスの魔法は一瞬で三姉妹の神核を貫き、その生命だけを静かに断ち切った。
光が消えた後、そこにはもう、過去も、現在も、未来も存在していなかった。
三人は互いに寄り添うように倒れ、その表情だけは不思議なほど穏やかだった。
水盤の前で、私は声を失った。
ウルズ。ヴェルダンディ。スクルド。
何度も私を導いてくれた人たち。
髪を飾り、迷えば手を引き、危険から守ってくれた、姉のような三人。
『……いや……』
自分の口から漏れた声が、ひどく遠く聞こえた。
水盤の向こうでは、ルシウスが三姉妹の亡骸へ一度だけ深く頭を下げていた。
そして振り返ることなく、人間側の軍勢とともに神界のさらに奥へ進んでいく。
私は彼を責めることができなかった。
ルシウスが彼女たちを殺したのは、憎かったからではない。
人類を守るために、敵として立ちはだかった神を倒した。それだけだった。
それでも、理解できることと、悲しくないことはまったく別だった。
私は水盤の前で膝から崩れ落ち、声を押し殺しながら泣いた。
神々は私を育ててくれた家族だった。
人間たちは、私が守りたいと願った存在だった。
人間が勝てば、家族が死ぬ。
神々が勝てば、人間が滅びる。
どちらの結末を望んでも、自分の大切な誰かを失う。
ラグナロクという狂った戦争の中で、私の心はもう、どちら側にも立つことができなかった。




