第77段階:運命の三姉妹(前編)
神々が一方的に告げた絶滅の宣告から始まり、世界を血と炎に染めたラグナロクの戦い。
当初、神々は脆弱な人間など一瞬で滅ぼせると確信していた。
しかし、若き魔導王ルシウスを中心に組織化された人間たちの軍勢は、神々の予想を遥かに超える執念と適応力で戦線を押し返し、ついに神界の重要拠点へと到達しようとしていた。
その日、私は神界の神殿から、水盤に映し出される戦況を息を詰めて見守っていた。
巨大な防衛線を突破し、神殿群へと続く大階段まで進軍してきたルシウスと、彼を補佐するカシアンをはじめとする人間側の精鋭部隊。
その前進を阻むように、大階段の上段へ三つの影が静かに舞い降りた。
その姿を見た瞬間、私の胸が凍りつくように冷たくなった。
神界における絶対的な真理、過去、現在、未来の運命そのものを司る
三柱の女神、「ノルン」の三姉妹だった。
一番年長であり、過去を司るウルズ。
彼女は私にとって、知識豊富で何でも教えてくれる頼れる姉のような存在だった。
現在を司るヴェルダンディは、いつも私を妹のように可愛がり、新しい衣装や花飾りを作っては楽しそうに笑っていた。
そして未来を司るスクルドは、あの忌まわしい会議の日
オーディンに反逆しようとした私の手を机の下で強くつねり
『貴女はまだここで命を落とす運命ではない』と、密かに私の命を救ってくれた恩人だった。
三人とも、人間を見下すような冷酷な神ではない。
オーディンの狂気じみた人類粛清に、心から賛同しているわけでもないはずだった。
しかし彼女たちは「運命」を司る神として、崩壊しつつある神界を守るという自らの役割を放棄することもできず、結果として人間側の矢面に立たざるを得なかったのだ。
水盤に映る三姉妹は、武器を構えて殺気立っているわけではなく
ただ静かに、絶望的な壁としてルシウスたちの前に立ち塞がっていた。
『ここから先へ行かせるわけにはいかない』
長女のウルズが、静かに、しかし絶対的な拒絶の意志を込めて告げた。
ルシウスは足を止め、紫水晶の瞳で三人の女神を静かに見据えた。
彼もまた、これまで戦ってきた傲慢な神々とは、彼女たちが決定的に異なることを察しているようだった。
『ならば、退かせるまでだ』
ルシウスの返答に、無駄な挑発や嘲りは一切なかった。
互いに守るべきもののために退くことのできない者同士、重く静かな緊張感が戦場を支配した。
戦闘は、人間側の精鋭魔導士たちによる一斉攻撃から幕を開けた。
数え切れないほどの魔法の矢と炎が三姉妹を襲うが、彼女たちはほとんどその場から動かなかった。
ルシウスの放った無属性の魔力刃が、ヴェルダンディの肩を確かに切り裂いた。
しかし、次女が表情を変えるより早く、長女のウルズが静かに手をかざす。
『――戻りなさい』
その一言で、ヴェルダンディの肩に刻まれたはずの傷が消えていった。
治癒されたのではない。
傷を負う前に存在していた肉体の状態が現在へと呼び戻され、起きたはずの損傷そのものが覆されたのだ。
ウルズは「すでに存在した過去」を参照し、その状態を現在へ再現することができる。
彼女が力を行使できる限り、どれほど攻撃を当てようとも、三姉妹は傷つく前の状態へ戻されてしまう。
さらに、ルシウスの傍らでカシアンが展開した巨大な術式が完成する直前、次女のヴェルダンディがその美しい瞳を彼へ向けた。
『――止まりなさい』
瞬間、カシアンの周囲の空間が硬直し、発動途中だった魔力回路がその「現在」の状態で完全に固定された。
構築された術式は崩壊しない代わりに、そこから先へ進むこともできず、永遠に完成の直前で停止させられてしまう。
ヴェルダンディが司るのは「現在」だった。
対象が今この瞬間に存在する状態を固定し、移動も変化も許さない。
肉体であれ空間であれ術式であれ、一度その力に捕らわれれば、現在から先へ進むことそのものを封じられる。
そして、他の魔導士たちが死角から放った奇襲は、すべて三女のスクルドによって事前に読まれていた。彼女は複数存在する少し先の未来を見通し、人間側がどこから攻撃するのか、次に誰がどの術式を使うのかを察知して姉たちへ伝えていく。
それだけではなく、存在し得る未来の枝の中から、自分たちに有利な結果へ至る道筋を選び取ることすら可能だった。
スクルドが未来を読み、ヴェルダンディが現在を固定して攻撃を封じ、それでも突破された被害をウルズが過去から正常な状態を呼び戻して消し去る。
三つの能力が完璧に噛み合ったノルンの防衛陣は、まさに「運命」という名の絶望的な壁だった。
水盤の前で、私は両手で口元を覆い、震えながらその戦況を見つめていた。
ルシウスが傷つけば、泥だらけになりながら一生懸命に魔法を練習していた小さな少年の姿が蘇り、人類を守るために傷だらけになって戦う彼に死んでほしくないと、胸の奥が締め付けられる。
しかし同時に
ルシウスの魔法がウルズやヴェルダンディへ向かうたび
私に知識を与え、髪を飾り、いつも優しく笑いかけてくれた彼女たちの姿が脳裏を過り
心臓を握り潰されるような痛みに襲われた。
どちらにも死んでほしくない。
神々は私を育ててくれた家族であり、人間たちは私が守りたいと願った存在なのだ。
どちらか一方を選べと言われても、選べるはずがなかった。
戦場では、絶望的な膠着状態が続いていた。
しかし、人間は戦いの中で学ぶ生き物だった。




