第76段階:小さな反逆
神々による、人間という種に対する一方的な絶滅の宣告。
あの日を境に、世界は凄惨な殺戮の舞台へと変貌した。
当初、オーディンをはじめとする多くの神々は、人間などという脆弱な存在はごく短期間のうちに滅ぼせると確信していた。
神々自身が前線に出るまでもなく、黄金の武具を纏う天使の軍勢、大地を揺るがす巨人族、炎と雷を吐く神獣といった圧倒的な戦力を投入している以上、人間に勝ち目など万に一つもありはしないと、誰もが疑わなかった。
実際、開戦直後は神側が圧倒的に優勢だった。
空を覆い尽くす天使たちの光の矢が降り注ぎ、巨人族の一歩が街の城壁を粉砕する。
人間たちの築き上げてきた町や国は次々と火の海に沈み、大地は血に染まり、甚大な犠牲が世界中を覆った。
しかし、神々の予想とは異なり、人間は滅びなかった。
瓦礫と絶望の中から、若き魔導王ルシウスを中心として、人間側は驚異的な速度で組織化されていったのだ。
ルシウスの圧倒的な実力と求心力のもとには、次々と人類の精鋭たちが集結した。
のちに彼の「魔導宮」の中核を担うことになる者たち
――猛火を操る者、水を支配する者、大気を切り裂く者、大地を脈動させる者。そして何より、それまで領土や資源を巡って互いに争っていた世界各国の兵士、魔導士、研究者、治癒術師たちが、国境や民族の垣根を越え、人類共通の敵を前に一丸となって戦い始めたのである。
さらに、人間には神々が軽視していた決定的な特徴があった。
人間は、「失敗から学ぶ」のだ。
一度目の戦いでは、神々の桁外れの魔法と物理的な破壊力に対応できず、多くの犠牲を出して敗北する。しかし、人間は決してそこで諦めない。
生き残った魔導士たちは、泥にまみれながら神の術式の残滓を徹底的に解析し
二度目の戦いでは防御のための結界を張り巡らせ、三度目には神の魔力を相殺する対抗術式を実戦へ投入してみせた。
敵の攻撃の癖、魔法の射程範囲、魔力回路の流れ、神獣の骨格的な弱点、天使たちの軍勢が組む陣形の死角。
戦えば戦うほど、人間たちは血を代償にして膨大な情報を蓄積し、それを通信魔法によって他国や他部隊と即座に共有していく。
神々は基本的に、生まれながらにして強大で完成された存在だ。
ゆえに、自らを変化させる必要性を知らない。
対して、人間はひどく弱い。だが、弱いからこそ必死に考え、知恵を絞り、工夫を凝らす。
彼らは自らの敗北と死さえも、次の勝利へ至るための血肉へと変えていくのだ。
私は神界の神殿から人間界の戦況を見下ろしながら、かつてロキと交わした会話を思い出していた。
『昨日できなかったことが、今日はできるようになるんだね』
『だからすごいんだよ。できないところから、できるようになるんだもん』
あの時、私が無邪気に素晴らしいと褒め称えた人間の性質が
皮肉にも、今、創造主たる神々との生存競争において最大の武器として発揮されていた。
さらに、ルシウス自身の戦闘への適応力は、神々から見ても真に異常としか言いようがなかった。
彼は戦場で神代の魔法を一度見ただけで、その魔力構造を瞬時に解析し、人間の魔導体系へと落とし込み、最適化された対抗術式を構築してみせる。
彼が編み出した、長い詠唱を必要としない無属性魔法の刃は、天使の鎧を紙切れのように切り裂き、神獣の分厚い皮膚を容易く貫いた。
やがて、神界へ届けられる戦況報告も目に見えて変化し始めた。
開戦当初は「人間側の都市を制圧した」「敵部隊を壊滅させた」という報告ばかりだったが、
時が経つにつれ、「天使部隊が壊滅」「第三陣の巨人族が撤退」「投入した神獣が討伐された」といった、神々にとって信じ難い報告が次々と舞い込むようになった。
特に、ルシウスを中心とする遊撃部隊は、神側から見ても明確で、決して無視できない脅威へと成長していた。
それでも、オーディンは玉座の上で「矮小な人間が神に勝てるはずがない」という態度を崩さなかった。
だが、その傍近くに仕える私にははっきりと分かっていた。
報告を受けるたびにオーディンの指先が微かに苛立ちに震え、その威厳に満ちた瞳の奥に、かつてないほどの焦りと怒りが渦巻いていることを。
ある日、私は広間で人間側の予想外の善戦を伝える戦況報告を聞いた後、二人きりになったオーディンへ、ずっと胸の奥につかえていた一つの疑問をぶつけた。
『オーディン様。もし……万が一にも我々が敗戦した場合、人間はどうなるのでしょうか』
この質問は、単なる勝敗の行方を問うものではなかった。
生命の樹を管理する私は、神界と人間界の生命循環の仕組みを誰よりも理解している。
もし神々が人間に敗北し、この神界そのものが崩壊するような事態になれば、神界から人間界の生命の樹へ命の水を届けることができなくなる。
その時、生命の循環を絶たれた人間界そのものは、果たして存続できるのだろうか。
私はそれが恐ろしかったのだ。
オーディンは、人間側が勝利する可能性そのものを心底見下すように鼻で笑った。
『ハッ。どのみち、人間は神なしでは生きられぬ存在だ。我々に逆らった時点で、どちらにせよ滅びる運命にある』
私はその冷徹な言葉を聞いて絶句し、ここで初めて、オーディンの本当の思考を理解した。
彼は、「人間を守り、育むために世界の秩序を維持している」のではなかったのだ。
人間が神々に完全に従属し、神の慈悲なしでは生きられない世界、それこそが彼にとって唯一の「正しい秩序」だった。
だからこそ、人間が自らの力で神々に勝ち、独立を手にしたとしても
その結果として人間界そのものが滅びるのであれば、それで構わないと考えている。
神の庇護下から外れた存在など、生きている価値はないのだと。
私の中で、オーディンに対する最後の信頼と敬意の欠片が、音を立てて崩れ去った。
だが、私はここで激昂し、正面から彼に反論することはしなかった。
かつてロキが受けた過酷な処罰、そして人間滅亡に反対したテュールたちの精神を、オーディンが容赦なく破壊し、粛清したあの恐ろしい光景。
それらを経験している今の私は、もう
「正面からオーディンへ反抗しても、決して人間を救うことはできない」
という現実を痛いほど理解していた。
だからこそ、私はここで初めて、表面上は従うふりをしながら、裏側で密かに人間たちを助けることを決意したのだ。
私が最初に標的と定めたのは、オーディンが常に傍らに置いている、あの忌まわしい錫杖だった。
金属の輪と鐘がついたその錫杖には、かつてテュールたち反対派の神々の精神を、音一つで一瞬にして破壊し、正気を奪った強力な精神干渉の力が宿っている。
私は戦況の報告を聞くたびに、強い危惧を抱いていた。
もしこの先、オーディンが自ら前線へ赴き、この錫杖を持ったままルシウスと直接対峙するようなことになれば……。
ルシウスの魔力や身体能力がどれほど強大に成長していようと、あの神代の理不尽な精神干渉術を初見で受ければ、対処できない可能性が高い。
肉体が無傷であろうと、精神を壊されてしまえば戦うことなどできない。
私は、幼い頃からその成長を見守ってきたあの紫水晶の瞳の彼が、あんな理不尽な力で心を壊され、惨めに殺されることだけは、どうしても耐えられなかった。
そこで私は密かに、自らの魔力と神界の鉱石を使い、オーディンの錫杖と瓜二つの偽物を造り上げた。
外見の装飾はもちろん
手にした時の重量、さらには微かな魔力の波長に至るまで
オーディン本人ですらすぐには気付かないほど精巧に模造しながら
精神を破壊するというあの恐ろしい力だけは決して宿らないようにした。
私は本来、戦闘や謀略の専門家ではない。
ただ植物を愛し、生命の樹へ水を運ぶことを役目とする神だ。
だからこそ、誰もいない玉座の間へ忍び込み、本物の錫杖と偽物をすり替える瞬間、私の両手は、見つかれば確実に精神を壊されて粛清されるという極限の恐怖で、自分でも驚くほど激しく震えていた。
呼吸を殺し、冷たい汗を流しながら、ようやく本物の錫杖を布で包んで自分の手元へ引き寄せた。
私は自分がもう後戻りできない場所へ踏み込んでしまったことを、はっきりと自覚した。
これは、私にとって初めての、神々に対する明確な「裏切り」だった。
私は人間側に神界の情報を流したわけでもなければ、直接神を殺したわけでもない。
ただ一つ、オーディンが人間に対して使用する可能性のある、極めて危険な武器を奪っただけだ。
それでも、フリッグやウルズ、そして長年自分を育ててくれた神界を家族として愛してきた私にとって、これは決して軽い意味を持つ行為ではなかった。
それでも、幼いルシウスが野原で泥だらけになりながら、初めて小さな魔法を成功させて笑った姿
そして今、理不尽な滅びから人類を守るために、自らの命を懸けて前線で戦い続けている彼の姿が、私の背中を押してくれた。
(……ごめんなさい)
私は、神界に住まう大切な家族たちへ、心の中で深く謝罪した。
それでも私は、人間たちを、そしてルシウスを守る道を選んだ。
この時の私はまだ知らなかった。
この恐怖に震えながら行った私の「小さな裏切り」が、のちに起こるオーディンとルシウスの最終決戦において、ラグナロクの勝敗を左右する最も重大な一手となることを。




