第75段階:あの日、神は敵になった
現在、荒廃した神殿では、フェイが今もハープを奏で続けていた。
その記憶を直接精神へ共有されているルシウスとカシアンは、目の前で明かされた神界の真実に言葉を失っている。
崩れた柱に寄りかかるロキも、普段の子どものような軽薄な笑顔を完全に失っていた。
自分が冥界へ送られた後、神界がここまで歪んでいたことを、彼は今、初めて知ったのだ。
ルシウスも無言のまま、記憶の続きを見つめていた。
カシアンも同様だった。
二人は、ラグナロク当時の人間側からは絶対に知ることのできなかった「神界内部の真実」を、初めて目撃している。
そしてルシウスの中には、それとは別の、さらに恐ろしい疑念が生じ始めていた。
フェイが、神々の側にいた。
しかも彼女は人類の滅亡に反対し、人間を守ろうとしていた。
だが、あのラグナロクの戦いで、ルシウスは数え切れないほどの神を殺した。
最高神オーディンをはじめ、名のある神々、天使の軍勢、巨人族、神獣。
敵として立ちはだかるものを、彼は片端から葬っていった。
その凄惨な戦場の中に、フェイもいたのではないか。
自分は、かつて彼女を殺したのではないか。
その可能性に思い至った瞬間、ルシウスは背筋が凍りつくのを感じた。
真実を知りたいはずなのに、その答えだけは確かめることが恐ろしかった。
カシアンもまた、長年ルシウスと共にラグナロクの最前線を戦い抜いた者として、当時の記憶を鮮明に思い返していた。
人間側から見れば、あの日まで神々との全面戦争など誰も想定していなかった。
それは神側からの一方的な宣戦布告であり、否、正式な布告でさえない。
一方的な神託による処刑宣告の直後、ほとんど猶予も与えられないまま絶滅攻撃が始まったのだ。
ある日、人間界全体の空が突然、不自然な暗闇に覆われた。
昼間だった空一面に巨大な神代の魔法陣が広がり、世界中のすべての人間たちの頭の中へ、最高神オーディンの声が直接響き渡った。
『人間という種は、世界の秩序を乱す存在と認定された。神々の決定により、これより人間を粛清する』
人間側は完全な混乱に陥った。なぜなのか、自分たちが一体何をしたというのか、誰一人として理由が分からない。
当時、すでに青年となっていたルシウスも、カシアンも、他の人間の魔導師たちも、一様に暗い空を見上げていた。
そして宣告からほとんど時間を置かず、空そのものが裂けた。
そこから現れたのは、神々だけではなかった。
黄金の武装を纏った天使の軍勢、山よりも巨大な巨人族、炎や雷を纏う神獣、神々によって生み出された無数の眷属たち。
圧倒的な神の軍勢が、人間界へ一斉に降下してきた。
最初の攻撃が放たれ、それまで人々が平穏に暮らしていた町が一つ、一瞬にして消滅した。
人間側は神へ戦争を仕掛けてなどいない。
神々の力を奪ってもいなければ、神界へ攻め込んでもいない。
ただ、「将来、神を超える可能性がある」という一方的な理由だけで、神々から絶滅を宣告されたのだ。
ルシウスは現在、フェイの記憶を通して、あの絶望的な開戦の日を改めて思い出していた。
当時は理由がまったく分からなかった。
なぜ突然、神々が罪のない人間を殺し始めたのか。
しかし今、フェイの記憶を見たことで、初めてその理由を知った。
オーディンが最も恐れた人間こそが自分であり、人類への総攻撃を決断させた最大の引き金の一つが、自分自身の異常なまでの成長と、そこから始まった魔法の発展だったのだ。
ルシウスはその事実に静かな衝撃を受けたが、「自分のせいで人類が襲われた」と単純な罪悪感へ陥ることはなかった。
人間は何も悪くない。
自分もただ学び、努力し、強くなろうとしただけであり、それを恐れて先に人類そのものを滅ぼそうとした神々の決断こそが間違っている。
それでも、もし自分がここまで強くなっていなければ、オーディンは同じ決断を下したのだろうかという思いだけは、一瞬、ルシウスの脳裏を過った。
フェイのハープは、今も美しい旋律を奏で続けている。
記憶は止まることなく、さらに先の絶望へと進もうとしていた。
ルシウスは、一心にハープを奏でるフェイの横顔を見つめた。
彼女は人類を滅ぼそうとした神々の中にいた存在でありながら、その決定に反対し、必死に人間を守ろうとしていた。
そんな彼女を見つめるルシウスの中には、自分はあの時、フェイを殺したのではないかという一つの恐ろしい疑問だけが、呪いのように残り続けていた。
ルシウスは無意識のうちに自身の両手へ視線を落とした。かつて数え切れないほどの神々の血に染まったその手が、微かに、しかし確かに震えている。
その主が初めて見せる動揺に、後ろに控えるカシアンだけが静かに気付いていた。




