第74段階:神々の粛清
最高神オーディンが、集められたすべての神々を前に、凍てつくような声で宣言した。
『よって、人間という種そのものを滅ぼす』
私はそのあまりにも残酷で理不尽な決定に耐えられず、勢いよく椅子から立ち上がって反論しようと息を吸い込んだ。
しかしその瞬間、分厚い大理石の机の下で、隣に座っていた運命の女神スクルドが、私の手を鋭く、痛いほどに強くつねった。
『……ッ!?』
私は痛みに顔をしかめ、思わず隣のスクルドを見た。
スクルドは顔を正面へ向けたまま、私の方を見ようとはしない。
しかし、運命を司る彼女の深淵のような瞳だけが僅かに動き、言葉を発することなく、私へ明確な警告の意思を伝えてきた。
――貴女はまだ、ここで命を落とす運命ではない。今は、静かにしていなさい。
そういう意味だった。
スクルド自身も、オーディンの決定には内心で強く反対しているはずだ。
しかし、彼女は未来の断片を見通す力を持っている。
ここで私が真正面から王に反抗すれば、どれほど危険な事態を招くかを察知していたのだ。
私は唇を強く噛みしめ、出かかった反論の言葉を無理やり腹の底へと飲み込み、震える足で再び椅子へ腰を下ろした。
広間に重苦しい沈黙が降りる中、オーディンの決定に異を持つ者は、私やスクルドだけではなかった。
『おいおい、オーディン。なぜそうなる?』
最初に沈黙を破り、堂々と声を上げたのは軍神テュールだった。
彼は戦いを司る神であるからこそ、闘争に至る理由の正当性を何よりも重んじている。
『人間が我々へ刃を向けたというなら分かる。だが、奴らはまだ何もしていないだろう。理由なき虐殺など、軍神として賛同できん』
続いて、広間の前列に座る一人の老神が静かに口を開いた。
北欧神話における最初の神であり、オーディンよりも遥かに古い歴史を持つ存在、ブーリだった。
『オーディン、それはやりすぎではないか?人間側に非はないのであろう。
いずれ脅威になるかもしれないという「可能性」だけを理由に、種そのものを滅ぼすなど、到底王の行いとは思えぬ』
ブーリは、オーディンにとっても決して無視できないほど古く、格の高い神だ。
さらに、オーディンと深い関係にある女神リンドも、静かに異議を唱えた。
『ブーリ様のおっしゃる通りです、あなた。危険な術師だけを警戒し、監視すればよいでしょう。
なぜ、魔法すら使えぬ罪のない子どもたちまで、一括りに滅ぼさなければならないのです』
彼らの言葉に背中を押されるように、詩と音楽の神ブラギも続いた。
『僕も反対だな。人間の奏でる音楽や芸術は面白いよ。僕らとはまるで違う感性で作られている。
それを全部跡形もなく消してしまうなんて、ずいぶん勿体ないことを言うじゃないか』
最初の数人に続き、広間の各所から次々と反対の意見が上がった。十数名ほどの神々が、人間の完全な滅亡には明確に反対の意思を示したのだ。
神々は決して、一枚岩の冷酷な集団ではない。明確に反対する者もいれば、疑問を持ちながらも沈黙を選ぶ者、オーディンへ狂信的に同意する者、そして、ただ恐怖で発言できない者もいる。
それぞれ異なる考えを持つ、多くの神々がそこには存在していた。
私はその声を聞きながら、胸の奥に僅かな希望の光を抱いた。
自分だけではない。人間を滅ぼすことがおかしいと考えている神は、ちゃんといる。
オーディン様も、これだけ多くの神々から反対されれば、考えを改めてくれるかもしれない。
しかし、オーディンは次々と反論を口にする神々を見下ろしても、怒鳴り散らすことも、声を荒らげることもしなかった。
彼は玉座に座ったまま、静かに手元の錫杖を持ち上げた。
その錫杖には小さな金属の輪や鐘がいくつも付いており、持ち上げるたびに、しゃらら……と澄んだ美しい音を立てる。
オーディンが錫杖の先端を床の石畳へ、一度だけ軽く打ち付けた。
カンッ、と乾いた音が響いた次の瞬間、最初に異議を唱えたテュール、ブーリ、リンド、ブラギをはじめ、数名の神々の様子が突如としておかしくなった。
『……あ……』
テュールの瞳から焦点が失われ、虚空を見つめながら身体が大きくよろめく。
先ほどまで理路整然と話していた神々が、何もない空間へ向かって不気味に話しかけ始めた。
『……空が、下にある……?』
『違う……私は……誰だった……私は、詩を……』
意味の通らない言葉をぶつぶつと呟き、まともに立つことすらできず、次々と床に崩れ落ちていく。
広間にいた神々の間から、一斉に動揺と悲鳴が上がった。
私は何が起きたのかまったく理解できず、息を呑んでその光景を見つめた。
スクルドだけが、机の下で私の手をさらに強く、骨が軋むほどに握りしめている。
動くな。声を出すな。
その痛切な意味が、握られた手から伝わってきた。
オーディンは、自らの手で精神を完全に破壊した神々を見下ろしながら、まるで最初から彼ら自身に異常があったかのように、極めて淡々と告げた。
『神ともあろう者が、とち狂ったようだ。牢へ入れよ』
武装した衛兵たちが即座に動き、正気を失ったテュールたちを引きずっていく。
その光景を見届けながら、オーディンは広間に響き渡る声で静かに続けた。
『神たる者が、自らの理性と誇りを失うとは嘆かわしいことだ。神の誇りを失った者は、もはや神ではない』
僅かな沈黙の後、オーディンは何の感情も見せないまま告げた。
『粛清せよ』
広間全体へ、文字通り凍りつくような絶対的な恐怖が広がった。
神にとって、肉体の死だけが恐怖ではない。
彼らは自らの知性、威厳、理性、崇高さ、そして「神としての誇り」を何よりも重んじている。
だからこそ、精神を完全に壊され、人格すら保てなくなった惨めな状態で衆目へ晒されることは、彼らにとって命を奪われる以上に恐ろしく、屈辱的なことだった。
しかもオーディンは、「私に反対したから処刑する」とは一言も言っていない。
自ら彼らの精神を破壊しておきながら、あくまで彼ら自身が神としての理性と誇りを失ったため、粛清するしかないという形へと完全にすり替えたのだ。
その意味を理解した瞬間、広間にいた神々の背筋が一斉に凍りついた。
先ほどまで反対しようと口を開きかけていた他の神々も、恐怖に顔を引き攣らせ、固く口を閉ざした。
フリッグも、ウルズも、トールも、もう誰一人として何も言えなかった。
私は机の下でスクルドに握られている自分の手を、震えながら見た。
もし先ほど、私が勢いよく立ち上がって反論していたら、あそこで精神を壊され、惨めに引きずられていったのは私だったかもしれない。
私は初めて、最高神オーディンという存在そのものに対して、底知れぬ明確な恐怖を抱いた。
そして同時に、あんなにも一生懸命に生きている人間たちを、絶対に守らなければならないという強い思いが、胸の中で炎のように燃え上がり始めていた。




