第73段階:特異点
ロキが冥界ニブルヘイムへと幽閉されてから、神界と人間界にはさらに途方もない時間が流れた。
私は、変わらず生命の樹へ神界の水を届けるという重要な役目を果たすため、定期的に人間界へと降り立っていた。
神界から人間界を見下ろすたびに、私は彼らの文明と魔導技術が驚異的な速度で発展していくのを肌で感じていた。
かつては泥だらけになって小さな火を灯すだけで歓喜していた人間たちが、今では炎、水、風、大地といった自然の力を自在に操り始めている。
彼らはその魔法を武器として使うだけでなく、生活を豊かにするための道具として、堅牢な建築のため、乾いた農地を潤すため、そして病や怪我を治癒するためにも応用し始めていた。
しかし、人間たちは神々から不当に力を盗んだわけではない。
禁忌とされる領域を侵したわけでもなかった。
彼らはただ
「神々によって与えられた世界」の中で、
「神々によって定められた法則」を地道に研究し、
自ら学び、考え、数え切れないほどの失敗を乗り越え、
何世代にもわたって知識を積み重ねてきただけだった。
だからこそ、私は彼らの成長を以前と変わらず、心から嬉しく、誇らしく思っていた。
特に、かつて幼い頃から何度か見かけていた、紫水晶の瞳を持つあの少年
――若き日のルシウスの成長は、神々から見ても異常と言えるほど突出していた。
彼が魔法を行使する姿を見るたびに、私は驚かされた。
通常、人間が高度な魔法を発動させるには、長い詠唱と複雑な術式の構築を必要とする。
しかし、青年へと成長した彼は、次第に詠唱すら必要とせず、一瞬で強大な魔法を展開するようになっていた。
さらには、神々が定めた炎や水といった既存の「属性」という枠組みそのものから外れた、純粋な魔力の塊とも言うべき「無属性魔法」をも独自に編み出したのだ。
彼はただ既存の魔法を覚えているのではない。
魔法という現象そのものの構造を根底から理解し、分解し、自分自身の理論で再構築している。
そしてついには、神々にとってごく当然の摂理であり、人間には決して到達できない絶対的な限界と考えられていた「老いと死」という生命の法則にまで、彼は手を伸ばした。
自らの肉体に干渉する術式を完成させ、人間でありながら不老不死という、神々と同じ領域にまで到達したのだ。
その事実を知った時、私はそれを「恐ろしい」とは少しも思わなかった。
むしろ、『あの子、こんなことまで出来るようになったんだ』と心底驚きながらも
幼い頃から何度も指を焦がし、それでも諦めずに努力を続けていたあの小さな人間が、
ここまで途方もない成長を遂げたことを純粋に喜んでいた。
しかし、同じ光景を玉座から見下ろしている最高神オーディンの反応は、私とは正反対のものだった。
神々を統べるオーディンは、以前から人間の急速な発展に強い警戒心を抱いていた。
だが、ルシウスという特異な存在を認識してから、その警戒は単なる懸念を越え、明確な「危機感」へと変わっていった。
オーディンは玉座の上で、ルシウスの放つ魔力量、術式の構成、
そしてその能力の底知れなさを冷徹に分析し続けていた。
そして、神として決して認めたくない一つの結論へと辿り着く。
(……この人間は、すでに神の領域へ足を踏み入れている)
さらに分析を続けるうち、その冷徹な思考は一つの恐ろしい疑念へと行き着いた。
(いや。もしかすると、すでにこの私を凌駕しているかもしれぬ)
神々の頂点に立ち、この世界そのものを統べる最高神である自分が、地を這う脆弱な人間に超えられる。神々によって作られた矮小な存在が、創造主である神を凌駕する。
もしその力が彼一人にとどまらず、他の人間たちにも波及すればどうなるか。
「神は絶対的な存在である」という、この世界の前提そのものが根底から崩れ去る。
人間が自らの力で生きていけるようになれば、神を必要としなくなるかもしれない。
神に対する畏敬の念を抱かなくなるかもしれない。
やがては神へ逆らい、神々を排除しようとする者すら現れるかもしれない。
オーディンにとって、それは「秩序の崩壊」以外の何物でもなかった。
しかし、この時点で人間は、神々に対して何一つ危害を加えていなかった。
神々へ反乱を起こしたわけでも、神界へ攻め込もうとしたわけでも、ましてや神々を殺そうとしたわけでもない。
神の力を盗んだわけでもないのだ。
彼らはただ、与えられた世界の中で必死に努力し、発展しただけだった。
それでも、オーディンは冷酷に一つの結論を下した。
(完全な脅威となる前に、排除しなければならない)
オーディン自身も、心の奥底では「自分が人間という存在を恐れている」という事実に気付いていたのかもしれない。
しかし、神々の王としての強烈なプライドが、それを認めることを許さなかった。
彼は自らの恐怖を、
「世界の秩序を守るため」
「神と人間の境界を維持するため」
「創造された者が越えてはならない領域を破らせないため」
という、絶対的な大義名分へとすり替えた。
そしてある日、オーディンは神界に住まうすべての神々を、神殿の巨大な広間へと招集した。
神々が一堂に会する厳かな広間に、私も当然、その一人として立っていた。
母のように慕うフリッグ、知識を司るウルズ、武神トールをはじめ、数多の神々が集められ、重苦しい沈黙が空間を支配している。
その場に、ロキの姿はない。
彼はすでに冥界ニブルヘイムへと幽閉されており、この会議が開かれていることすら知る由もなかった。
オーディンは玉座から私たちを見下ろし、人間界の現状について重々しい声で語り始めた。
『人間は、我々の予想を遥かに超え、急速に力を増している。
彼らが扱う魔法は、すでに本来許されていた領域を越えつつある。
ついには、生命の理にまで干渉する者までが現れた。
このまま放置すれば、神と人間の境界は完全に失われる。
やがては世界の秩序そのものが崩壊し、混沌が訪れるであろう』
オーディンの威厳に満ちた声と、その発言内容だけを聞けば、一見するともっともらしく、世界の安寧を案じる王としての正当な言葉のようにも聞こえた。
しかし、私はその言葉を聞きながら、どうしようもない違和感に胸を締め付けられていた。
(でも、人間たちは何も悪いことをしていない。誰かを傷つけたわけでもない。
ただ、一生懸命に勉強して、自分たちにできることを増やしてきただけなのに)
神々は生まれながらにして強大で、完成された存在だったからこそ、それ以上の変化を必要としなかった。
しかし人間は違う。
彼らは弱かったからこそ学び、失敗し、工夫を重ね、世代を超えて知識を紡いできた。
ルシウスという青年は、その人間の持つ「できないことを、できるようにする」という性質が、極端な形で現れた存在に過ぎないのだ。
オーディンが人間を恐れたのは、彼が神々の中で誰よりも早く、その人間の「無限の可能性」を理解してしまったからなのかもしれない。
だが、私の思考を断ち切るように、オーディンは最終的な決定を広間に響かせた。
『よって、人間という種そのものを滅ぼす』
広間が水を打ったように静まり返り、私は一瞬、その言葉の意味が理解できず、呆然と玉座を見上げた。
一部の危険な術師を処刑するのではない。
神の領域へ踏み込んだルシウスだけを排除するのでもない。人間という種族そのものを、この世界から跡形もなく消し去る。
『……滅ぼす?』
掠れた声が、口から零れ落ちた。
オーディンは玉座から私を一瞥すると、一切の感情を交えずに告げた。
『これは神々と、この世界の秩序を守るために必要な、避けては通れぬ決断だ』
私は、その言葉にどうしても納得することができなかった。
かつて、幼いルシウスが野原で泥だらけになりながら、何度失敗しても魔法の練習を続けていた姿が脳裏に蘇る。
何度も指を焦がし、それでも諦めることなく術式を組み直し、ようやく小さな炎を指先に灯した、あの瞬間。
『できた! 人間って、すごい!』
あんなにも無邪気に喜んだ、あの少年のひたむきな努力が、懸命に生きてきた結果が
なぜ「滅ぼさなければならない脅威」になるのか。
人間たちは、何も悪いことをしていないではないか。
ここで私は初めて、これまで畏敬の念を抱き続けてきた最高神オーディンに対し、明確な疑問と強い反発を覚えた。
私は周囲を見回した。
フリッグは苦しげに顔を歪め、目を伏せている。
ウルズは何かを深く考え込むように沈黙し、トールは無言のまま腕を組み、明らかに納得のいかない険しい表情を浮かべていた。
他の多くの神々の間にも、動揺が広がっているのが分かる。
しかし、誰一人として声を上げない。
ロキがただの悪戯でどれほど過酷な処罰を受けたか、それを目の当たりにしている彼らは、神々の王の絶対的な決定に対し、簡単には反対の声を上げられなかったのだ。
私はその沈黙の中に、かつてロキが連行された時と同じものを感じ取った。
恐怖だ。
オーディンの絶対的な宣告を聞きながら、私は強く拳を握りしめ、初めて明確に思った。
(違う。それは、違う)
神々を家族として愛し、オーディンを王として深く敬ってきた私の中に、初めて彼の決定だけは絶対に受け入れられないという、強い意志が生まれていた。
この「人間を滅ぼす」という神の決定が、後に世界を焼き尽くすラグナロクへと繋がる最初の決定的な一歩になることを、その時の私はまだ知る由もなかった。




