第72段階:神々の王
記憶の中で、女神である私は生命の樹へ神界の水を届ける重要な役目を持ち、定期的に人間界へと降り立っていた。
ロキもまた、その仕事を面白がっては頻繁に同行していた。
私たちは不可視の姿で人間界の森や平野を歩き、日々成長していく人間たちを興味深く観察した。
人間たちは少しずつ魔法の理を解き明かし、ただ火を灯すだけだった術式を応用して、農地へ水を引き、風や大地の力を利用して堅牢な家を建て始めていた。
『前より、ずっと上手になってる』
遠くで町を作る人間たちを眺めながら、私は彼らの発展を心から喜んでいた。
ロキもまた、瞳を輝かせながら人間の「変化する速さ」を眺めている。
『人間って面白いね』
『うん。昨日できなかったことが、今日はできるようになるんだね』
『僕らは、生まれた時から大体なんでもできるからね』
ロキが神としての事実をあっけらかんと口にすると、私は嬉しそうに頷いた。
『だからすごいんだよ。できないところから、できるようになるんだもん』
その時、私たちは深い森の奥から、微かな血の匂いと苦しげな獣の息遣いを感じ取った。
急いで駆けつけると、倒木の傍らに一頭の白狼が横たわっていた。
その腹部は大きく膨らみ、新たな命を宿していることが分かる。
しかし、白狼の身体には深い裂傷が走り、呼吸も浅い。
このままでは、母体も胎内の子どもたちも助からない。
私は咄嗟に駆け寄り、必死に治癒の力を注ごうとした。
しかし、当時の私は植物を育み、生命の樹へ力を届ける役割を持っていたものの、自らの生命力そのものを他者へ直接分け与える術はまだ知らなかった。
『どうしよう……このままじゃ、この子も、お腹の赤ちゃんも……!』
涙目で焦る私の隣に、ロキが静かにしゃがみ込んだ。
『いーちゃん、自分の血を使えばいいよ』
『血?』
『そう。神の命の力は、血にも色濃く宿ってる。少しだけ、自分の命を分けるんだよ』
ロキは私の手を取った。
『やり方、教えてあげる』
ロキに教えられるまま、私は迷うことなく自分の指先を傷つけ、流れ出した血を白狼の口元へ与えた。
その瞬間、私の血に宿る純粋な生命の力が、白狼の身体へと流れ込んだ。
深い傷がゆっくりと塞がっていく。
弱々しかった鼓動が力を取り戻し、胎内からも小さな命の脈動が返ってくる。
だが、それだけではなかった。
私自身も気付かないほど深い場所で、その命の一部に私の力が静かに根付いていた。
それは契約でも、服従を強いる術でもない。
ただ死にかけていた命を救いたいと願い、自らの生命を分け与えた結果として生まれた、最初の繋がりだった。
『もう大丈夫。お腹の赤ちゃんたちも、大丈夫だからね』
私が優しく微笑みかけると、白狼は弱々しくも安心したように、その手へ鼻先を擦り寄せた。
私は雪のように白い毛並みを撫でながら、ふと笑みをこぼす。
『真っ白で綺麗。雪みたい』
少し考えてから、嬉しそうにその名を口にした。
『……ロスカ。どうかな?』
白狼が、その名に応えるように小さく鳴く。
『気に入ったみたいだね』
ロキが楽しそうに笑った。
これが、後に千年以上もの長きにわたって私に仕え続けることとなる古き眷属、ロスカとの最初の出会いだった。
しかし、穏やかで幸福な時間は永遠には続かなかった。
時が流れても、ロキは相変わらず神界で数々の悪戯を繰り返していた。
彼にとっては悪意のない退屈しのぎに過ぎなかったが、周囲の神々にとっては迷惑極まりないことも多い。
そしてある日、決定的な事件が起こった。
神々が一堂に会する重要な式典。
その最中、ロキは最高神オーディンの玉座と、彼が身につける冠へ巧妙な幻術を仕掛けた。
オーディンが玉座へ腰を下ろした瞬間、厳格な威厳を象徴していた冠が滑稽な道化の装飾へと変じ、玉座までもが間の抜けた音を立てて大きく傾いた。
集まっていた神々の間から、堪えきれない笑い声が漏れた。
だが、オーディンだけは笑わなかった。
先ほどまで笑いに包まれていた空間が、一瞬で凍りつく。
『そんなに怒らなくてもいいじゃない』
ロキは軽く肩をすくめた。
だが、オーディンの眼差しには、これまでとは明らかに違う冷たさが宿っていた。
神々を統べる王の威厳が、大勢の前で踏みにじられた。
オーディンにとって、それは単なる悪戯ではなかった。
『これは、王に対する明確な反逆である』
ロキの笑みが、僅かに消えた。
『ロキを拘束せよ』
オーディンの命令と同時に衛兵たちが動き、ロキの両腕を拘束する。
『ちょっと待ってよ。そこまで怒ること?』
ロキはなおも冗談めかして笑っていたが、そのまま広間の外へと連れ出されていった。
私は咄嗟に後を追おうとした。
『ロキ!』
『そこにいろ』
オーディンの一言に、足が止まる。
重い扉が閉ざされ、ロキの姿が完全に見えなくなった。
それから、彼の処遇についての審議が始まった。
オーディンは、極めて重い処罰を命じた。
神界の最下層、光すら届かぬ洞穴へ幽閉し、巨大な岩へその身体を拘束する。
そして頭上には毒蛇を据え、逃れることのできない苦痛を与え続ける。
秩序を乱す者を罰する。
それ自体は、神々を統べる王として必要なことなのかもしれない。
だが、その刑は悪戯に対する罰としては、あまりにも苛烈だった。
『待ってください!』
私は堪えきれずに前へ出た。神々の視線が、一斉に私へ集まる。
『確かにロキが悪いです。でも、そんな罰は酷すぎます!』
『口を慎め』
オーディンの声が、雷鳴のように広間へ響く。それでも私は退かなかった。
『でも!』
『これは神々の王としての決定だ。秩序を乱す者に例外を認めれば、秩序そのものが崩れる』
『だからって、こんなの……! ただのイタズラでしょう!?』
『口を慎め。それ以上異議を唱えるのであれば、お前も同罪に処す』
その言葉に広間がさらに静まり返った。
私は助けを求めるように周囲を見回した。いつも優しかったフリッグ。何度も私を導いてくれたウルズ。そして、神界最強と謳われるトール。
誰も動かなかった。
フリッグは苦しそうに目を伏せ、ウルズも唇を固く結んだまま視線を逸らしている。
私は最後に、トールを見た。
『トール様……』
巨大な拳が、強く握られた。あまりの力に掌から血が滲み、床へ一滴だけ落ちる。
『…………』
トールは何かを言おうとして口を開いた。
だが、声にならない。
戦場であれば、誰よりも迷わない男だった。
どれほど強大な敵を前にしても、ただ槌を握り、仲間の前へ立つことができる。
けれど今、彼の前にいるのは倒すべき敵ではない。自らが仕える王だった。
何を言えばいいのか分からない。
どう反論すれば私の願いを汲んでもらえるのかも分からない。
結局、トールは何も言えないまま、俯いた。
私の胸に、深い悲しみが広がった。
この時初めて私は、自分が温かな家族だと思っていた神々の間に、オーディンへ逆らうことのできない絶対的な「恐怖」が存在していることを知った。
やがてロキが拘束され、冥界ニブルヘイムへ送られる時が来た。
『ロキ!』
私は衛兵の制止を振り切り、彼のもとへ駆け寄った。
拘束されたロキは、自らの恐怖を隠すように、いつもの調子でふわりと笑う。
『そんな顔しないでよ』
『私、絶対に何とかするから。絶対に助けるから!』
その悲痛な声に、ロキは少しだけ真面目な顔になった。
『いーちゃん。君まで怒られちゃうよ』
『そんなのどうでもいい!』
ロキは目を丸くした。そして、ひどく柔らかく、本当に嬉しそうに笑った。
『……そっか』
それが、ロキがラグナロク以前の神界で私を見た、最後の瞬間だった。
ロキがいなくなった後、神界の日常は少しずつ、しかし確実に変わっていった。
回廊から笑い声が減り、神々は以前よりもオーディンの顔色を窺うようになった。
そしてオーディン自身もまた、その関心を人間界へ向け始めていた。
人間たちは、神々の予想を遥かに超える速度で魔法を発展させていた。
かつては小さな火を灯すだけだった者たちが、巨大な炎を生み、風を操り、大地を動かし、ついには傷を癒やす術まで編み出している。
神々に与えられたものをそのまま使っているのではない。
自ら考え、自ら組み上げ、自らの力として獲得している。
『人間が、神の領域へ近付きすぎている』
オーディンのその言葉に、周囲の神々は何も答えなかった。
かつて私が「すごい」と笑った人間の成長を、オーディンは同じようには見ていなかった。
それは彼にとって、神々の絶対性を揺るがしかねない「脅威」だった。
そして、オーディンの鋭い視線が、一人の人間へ留まる。
かつて私とロキが見守っていた、あの小さな少年。
成長し、青年へ差し掛かろうとしている若き日のルシウスだった。
彼は今や、幼少期とは比べものにならないほど高度な魔法を操っていた。
しかも、ただ既存の術式を使っているのではない。
術式を分解し、構造を理解する。
不要な部分を削り、新たな理論を加えて再構築する。
神々が世界へ与えた魔法という仕組みを、人間であるルシウスが自らの手で改良し始めていた。
オーディンの表情に、初めて明確な険しさが浮かんだ。
『……あの人間は、何者だ』
現在。
蘇りつつある神殿でその記憶を共有していたロキは、自分が拘束され、冷たい洞穴へと連行されていく場面を、ただ無言で見つめていた。
普段の軽薄な笑顔は、完全に消えている。
自分が連れ去られたあの日。
フェイが神々の王に逆らい、周囲の神々を敵に回すことすら恐れず、自分を庇っていた。
そのすべてを、ロキは知らなかった。
「……いーちゃん」
誰にも聞こえないほど小さな声が、零れた。
ルシウスとカシアンもまた、この記憶を通して理解し始めていた。
神界は、人間によって突然滅ぼされたわけではない。その遥か以前から、内部にはすでに亀裂が生まれていたのだ。
そして記憶の中では、最高神オーディンが人間界を見下ろしている。その視線の先にいるのは、若き日のルシウス。
『……あの人間は、何者だ』
それは、絶対的な存在であったはずの神が初めて、一人の人間を「脅威」として認識した瞬間だった。




