第71段階:神々の記憶
フェイが奏でるハープの美しい旋律に乗って、荒廃した神殿に神代の記憶が鮮やかに蘇っていく。
その音色が届く範囲では、枯死していた木々が淡い緑を取り戻し、ひび割れた石柱が繋がり、干上がっていた噴水には清らかな水が湧き出して陽光にきらめいていた。
ルシウス、カシアン、ロキ、ロスカの意識は、完全にフェイの魂が記憶する遥か昔の神界へと同調していた。
そこは、現在のように灰に覆われた死の世界ではない。
生命と魔力に満ち溢れ、すべてが光り輝くような美しい世界だった。
そう、私の育った世界。
そして、その記憶の中で、私は神聖な衣装を纏っていた。
『いーちゃん!さっきのオーディンの顔見た? 僕のイタズラで、すっごい顔してたよ!』
『またやったの? そんなイタズラばっかりしてると、いつかオーディン様に何されるか分からないよ!』
若いロキが得意げに報告し、私は呆れたようにため息をつく。
『でも、面白かったでしょう?』
『……面白かった、けどっ!』
怒ろうとして、結局吹き出してしまう私。
私にとって、神界に住まう数多くの神々は、単なる上位存在や畏れ敬うだけの対象ではなかった。
皆、私にとって大切な家族そのものだった。
『少し髪が乱れていますよ。こちらへいらっしゃい』
回廊の向こうから穏やかな声がかかる。
慈愛に満ちた女神フリッグだった。
私が素直に近寄ると、フリッグは慣れた手つきで白金の髪を整え、乱れていた髪飾りを直していく。
『またロキと走り回っていたのでしょう』
『ち、違うよ。今日は私、止めた側だもん』
『そういうことにしておきましょうか』
フリッグは責めることもなく、困ったように微笑んだ。
私にとってフリッグは母親のような存在だった。
いつも身なりを整えてくれ、失敗しても叱るより先に怪我がないかを心配してくれる。
私もまた、そんな彼女を心から慕っていた。
『仕事の時間は把握しているな』
反対側から、静かな声とともにウルズが歩み寄ってくる。
『うん。生命の樹への水やりでしょう?』
『分かっているならよい。だが今日は人間界の東側で魔力の流れが弱い。帰りに様子を見ておくといい』
『分かった!』
ウルズは私にとって姉のような存在だった。
知識が豊富で、まだ経験の浅い私が迷った時には、いつも進むべき方向を示してくれる。
私は彼女の言葉を深く信頼していた。
そこへ、巨大な水瓶を二つ、軽々と両肩に担いだ偉丈夫が通りかかる。
最強の武神として名高いトールだった。
圧倒的な戦闘力と威厳を持ち、ただ立っているだけで周囲の空気が張り詰めるような男だったが、日常では驚くほど口数が少ない。
『トール様、それ生命の樹に持っていくお水? 手伝おうか?』
『……いや』
『重くない?』
『……平気だ』
それだけ言って歩き去る。
以前、私が高い棚にある書物を取ろうとして背伸びをしていた時も、トールは何も言わず後ろから手を伸ばし、その本を取って渡しただけだった。
そんな不器用な彼を、少しも怖いとは思ったことはなかった。
『浮かれている暇はないぞ。自らの役割を忘れるな』
遠くから、低く厳格な声が響き渡る。
神々を統べる最高神オーディン様だった。
私は思わず背筋を伸ばす。
『はい、オーディン様!』
彼は私に対しても基本的には厳しかったが、それは決して冷たさからではなかった。
与えられた力と役割を信頼しているからこそ、その責任を軽く扱うことを許さなかった。
私にとっては、怖い父親か厳しい教師のような存在だった。
そして、悪神として他の神々から煙たがられることの多いロキにとっても、私は特別な存在だったらしい。
どれほど問題を起こしても、彼女だけは最初から彼を遠ざけようとはしなかった。
呆れ、怒り、時には庇いながらも、最後にはいつも隣で笑っている。
神界でロキが心から気を許せる、数少ない相手だった。
神々に囲まれ、深く愛されながら暮らす彼女の姿が、穏やかな日常として次々と映し出されていく。
やがて彼女が、何かを思い出したようにパンと両手を打った。
『さて、生命の樹にお水あげに行かなきゃ!』
そして隣でくすくす笑っているロキを見る。
『オーディン様の件は秘密にしとくから、手伝ってよね!』
『もちろんだよ』
私には、世界を維持するための重要な役割があった。
それは、人間界に存在する生命の樹へ、定期的に神界の水を与えること。
生命の樹は、人間界の大地へ生命力を循環させる心臓のような存在だった。
しかし、人間界の水だけでは、その巨大な樹を維持することはできない。
神界の水に含まれる特別な生命の力を定期的に与えなければ、生命の樹は徐々に弱り、最終的には枯れ果ててしまう。
生命の樹が弱れば、植物は育たなくなり、大地は痩せ細り、動物や人間たちの生命力も低下していく。
世界全体の生命の循環そのものが崩れてしまうのだ。
だからこそ、私はこの役割を何よりも大切にしていた。
私とロキは、神界から人間界へと降り立った。
当時の人間界は、現在とは似ても似つかないほど豊かで美しい世界だった。
どこまでも続く広大な森林、清らかな水を湛える川、黄金色に輝く農地。
まだ数は少ないものの、人間たちは寄り添うようにして町や村を作り、懸命に生活を営んでいた。
私たちは、人間からは認識されない不可視の状態で、人間界の中心へ向かった。
そこには、現在の魔導宮にあるものよりも遥かに巨大で、生命力に満ち溢れた青々とした生命の樹がそびえ立っていた。
私たちが神界から運んできた水を、樹の根元へ優しく注ぎ込む。
水が大地へ染み込んでいくと同時に、生命の樹全体が脈打つように淡い青い光を放ち、周囲の大地へ生命の息吹を還元していく。
それを見届けると、私は自然に笑みが零れた。
『ロキ、何を見てるの?』
仕事を終え、ふと隣を見ると、ロキが遠くの野原を興味深そうに眺めていた。
『人間だよ』
ロキが指差す。
『ほら。魔法を覚えたみたいだよ』
そこには、一人で魔法の練習をしている人間の少年がいた。
まだ幼く、扱う術式も未熟だ。
小さな火を灯そうとしては何度も失敗し、指先を焦がしている。
それでも少年は諦めることなく、無言で何度も術式を組み直し、魔法を発動しようと試み続けていた。
私は、その様子を興味津々で見つめた。
『へぇ。神様みたいなことが出来るんだ』
『まだ全然だけどね』
少年のひたむきな姿を眺めながら、感嘆の息を漏らした。
『でも、魔法が使えるようになるまでに、きっとたくさん勉強して、いっぱい努力してきたんだろうね』
『そうだね』
ロキの声が、少しだけ真面目なものになる。
『僕らとは違う』
『人間って、すごい!』
弱く、短命で、神々に比べれば遥かに小さな存在でありながら、自ら学び、試し、失敗し、努力を重ねることで、自分たちにはなかったものを一つずつ手に入れていく。
その姿を、純粋に素晴らしいと思っていた。
そして、私とロキが眺めていた、その一人の少年。
記憶を共有されている現在のルシウスは、その顔を見た瞬間、息を呑んだ。
短い黒髪。
紫水晶のように透き通った、意志の強い瞳。
間違いない。
それは、幼き日のルシウス自身だった。
まだ神々への憎しみを抱く前。
自分が神を殺すことになるなど、想像すらしていなかった頃の自分。
記憶の中の私は、それが誰なのかも知らないまま、遠くから楽しそうに少年を眺めていた。
『あ、また失敗した』
少し心配そうに見守る中、幼いルシウスは泥だらけの手で、もう一度術式を組み直す。
今度は、小さな、しかし確かな火が少年の指先に灯った。
それを見た瞬間、私の胸までぱっと明るくなった。
『できた!』
まるで自分のことのように嬉しかった。
『いーちゃん、嬉しそうだね』
『だって、ずっと頑張ってたから!』
遠くの野原で、幼いルシウスが何かの気配を感じたように一瞬だけ顔を上げる。
しかし、神々の姿は見えない。
少年は不思議そうに周囲を見回した後、再び手元の術式へ視線を戻した。
私はそんなことにも気付かず、ただ嬉しそうに笑っている。
現在のルシウスは、何も言えなかった。
表情そのものはほとんど変わっていない。
しかし、その紫水晶の瞳だけが僅かに揺れていた。
何者でもなかった自分が、初めて小さな魔法を成功させた瞬間を、彼女は誰よりも無邪気に喜んでいた。
カシアンもまた、その少年が幼き日の主であることに気付き、驚きを隠せないまま記憶を見つめていた。
そしてロキも。
この少年が、現在目の前に立っている神殺しの魔導王ルシウスであることに気付き、初めて少し真剣な表情で彼を見る。
(……あの小さな人間が、オーディンを殺した?)
ロキの中で、長く抱いていた疑問がさらに強くなる。
神々によって作られたはずの人間が、なぜ創造主である神を超えたのか。
記憶の中で、私とロキが生命の樹のそばを離れ、光の階段を上っていく。
最後に一度だけ立ち止まり、魔法の練習を続けている幼いルシウスを振り返った。
『もっと上手になるといいね』
『なるんじゃない?』
『うん。きっとなるよ』
私たちはそのまま、美しい神界へ帰っていった。
その背後では、幼いルシウスがまた新しい術式を、真剣な顔で書き始めている。
現在。
蘇りつつある神殿で、そのすべてを見届けたルシウスは、ただ沈黙していた。
かつて自分が憎み、その手で滅ぼした神々。
その一人だったかもしれない存在は、遥か昔、まだ何者でもなかった自分を見つめていた。
努力する人間を、素直に「すごい」と笑っていた。
そして、自分が初めて小さな魔法を成功させた瞬間を、まるで自分のことのように喜んでくれていた。
神殿に響き続けるハープの旋律の中で、ルシウスは何も言葉にできないまま、記憶の中で笑うかつての彼女を見つめ続けていた。




