第70段階:神殿の主
「これは……」
カシアンが、思わず低く呟いた。
修復魔法ではない。幻でもない。
目の前で失われた植物が生き返り、枯れた水脈が戻り、崩壊していた建物そのものが現実として再生している。
ルシウスも何も言わず、その光景を見つめていた。
彼はこれまで、フェイの周囲で植物が育ち、生命の樹が回復していく現象を何度も目にしてきた。
しかし、これは規模が違う。
一人の少女が奏でる音楽だけで、死んでいた世界そのものが蘇っていく。
演奏が進むにつれ、今度はフェイ自身にも不可思議な変化が起き始めた。
弦を爪弾く指先から温かな何かが身体の奥へと広がっていく。
初めて弾くはずのハープなのに、指は一度も迷わない。
次にどの弦へ触れれば、どんな音が生まれるのかを、考えるよりも先に身体が知っていた。
やがて、今着ている魔導宮の衣服が淡い光に包まれた。
フェイは演奏を続けながら、自分の袖が光の粒子へ溶け、見たことのない白い衣へ変わっていくのを呆然と見つめた。
羽衣のように軽やかな布地に金色の装飾が浮かび、白金の髪にも古い意匠を持つ髪飾りが現れる。
(知らない。)
(こんな服を着た記憶などない。)
それなのに、肌へ馴染む感触も、肩から流れ落ちる布の重さも、髪に触れる装飾の僅かな冷たさも、あまりにも自然だった。
まるで、ずっと昔から自分のものだったかのように
フェイはハープを奏でながら、胸の奥に込み上げてくる説明のつかない懐かしさに息を詰めた。
視界の端で、ルシウスが言葉を失って自分を見つめている。
カシアンもいつもの冷静な表情を僅かに崩し、ロスカはその場で静かに頭を垂れていた。
ロキだけは何も言わなかった。
いつもなら面白そうに何かを口にするはずなのに、今はただ、ひどく懐かしいものを見るような目でフェイを見つめている。
さらに演奏を続ける。
(ああそうだ。私は……私の本当の名は……)
やがて、美しく蘇った神殿の景色がゆっくりと滲み始めた。
目の前にあるはずの柱も、噴水も、ルシウスたちの姿さえも淡い光の向こうへ薄れていく。
代わりに、知らないはずの景色が重なった。
私は一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。
けれど、不思議と怖くはなかった。
むしろ、胸の奥から込み上げてきたのは、帰ってきた時のような安堵だった。
気が付けば、目の前には現在の灰色の世界とはまるで違う景色が広がっていた。
空はどこまでも青く澄み渡り、雲の上には巨大な神殿がいくつもそびえている。庭園には見たこともない花々が色鮮やかに咲き乱れ、遥か彼方には、天を覆い尽くすほど巨大な樹が枝を広げていた。
空を舞う、背に翼を持つ者たち。
遠くを歩く、山のように巨大な者たち。
人とも獣ともつかない、美しい生き物たち。
誰もが当たり前のようにそこにいて、笑い、話し、穏やかな時間を過ごしている。
知らない場所のはずだったが、どこかひどく懐かしい。
しかも私は、どこへ続くのかを知っていた。
あの角を曲がれば庭園がある。
あの階段を上れば大広間へ出る。
あちらの回廊は午後になると陽がよく差し込む。
そんな記憶が、考えるより先に次々と胸の中へ浮かんでくる。
そうだ。
これは、私の記憶だ。
自分が、ここにいる。
自分の足でこの道を歩き、自分の目でこの景色を見ている。
その感覚は、あまりにも鮮明だった。
『いーちゃん!』
突然、背後から聞き慣れた声がして、私は振り返った。
視界の端から、ロキがこちらへ駆けてくる。
今とほとんど変わらない姿だった。悪戯が成功した子どものように目を輝かせ、楽しそうな笑顔を浮かべている。
『いーちゃん!さっきのオーディンの顔見た?僕のイタズラで、すっごい顔してたよ!』
その姿を見た途端、自然に言葉が出た。
『またやったの?』
自分の声なのに、どこか遠い。
けれど、その言葉を口にした感覚も、ロキを見て呆れた気持ちも、すべて自分自身のものだった。
『だって、すっごく面白かったんだもん』
『そんなイタズラばっかりしてると、いつかオーディン様に何されるか分からないよ!』
オーディン様。
その名を口にした瞬間、現在のフェイの意識のどこかが小さく揺れた。
かつて神々の頂点に立ち、そしてルシウス自身の手によって倒された最高神。
それなのに、この記憶の中の自分は、その名を何の恐れもなく知っている。
それどころか、ごく自然に敬意を込めて「様」と呼んでいた。
ロキはそんな私の心配などまるで気にせず、お腹を抱えてケラケラと笑っている。
その笑い声を聞いていると、また胸の奥が温かくなる。
懐かしい。
その感覚だけは、もう否定できなかった。
ロキとこんなふうに話したことがある。
何度も悪戯を叱って、それでも最後には一緒に笑っていた。
それは、誰かから聞かされた出来事ではない。
そう、全部、私の中にある。
現在のフェイはハープを奏で続けながら、流れ込んでくる記憶の中で、自分自身が遠い昔の神界を歩いていたという事実を、少しずつ受け入れ始めていた。
そして同時に、その記憶をルシウスたちも見ていることが、不思議と分かった。
ほんの一瞬だけ、現在の景色が記憶の向こうに透けて見える。
ルシウスは、微動だにせずフェイを見つめていた。
いつもの冷静な表情はほとんど変わらない。
それでも、紫水晶の瞳だけが僅かに揺れている。
フェイには、彼が何を考えているのかまでは分からなかった。
ただ、自分と同じものを見ている。
神々がまだ存在していた時代。
自分がそこにいたという記憶を。
そして、今の自分がまだ知らない「自分」を。
フェイは再び記憶の中へと引き込まれていった。
目の前では、ロキが相変わらず楽しそうに笑っている。
その頃の自分もまた、何の疑いもなく彼と笑っていた。
この先に何が起こるのかも知らずに。
神々が滅びることも。
世界が今のような姿になることも。
そして、自分の大切な人たちを滅ぼすことになる一人の人間と、いつか出会うことも。
この時の私は、まだ何一つ知らなかった。




