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神を殺した魔導王は、花を咲かせる少女を拾った  作者: 名前はまだない
【第五章】失われた世界

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第70段階:神殿の主

「これは……」


カシアンが、思わず低く呟いた。


修復魔法ではない。幻でもない。

目の前で失われた植物が生き返り、枯れた水脈が戻り、崩壊していた建物そのものが現実として再生している。


ルシウスも何も言わず、その光景を見つめていた。

彼はこれまで、フェイの周囲で植物が育ち、生命の樹が回復していく現象を何度も目にしてきた。

しかし、これは規模が違う。

一人の少女が奏でる音楽だけで、死んでいた世界そのものが蘇っていく。


演奏が進むにつれ、今度はフェイ自身にも不可思議な変化が起き始めた。


弦を爪弾く指先から温かな何かが身体の奥へと広がっていく。

初めて弾くはずのハープなのに、指は一度も迷わない。

次にどの弦へ触れれば、どんな音が生まれるのかを、考えるよりも先に身体が知っていた。


やがて、今着ている魔導宮の衣服が淡い光に包まれた。


フェイは演奏を続けながら、自分の袖が光の粒子へ溶け、見たことのない白い衣へ変わっていくのを呆然と見つめた。

羽衣のように軽やかな布地に金色の装飾が浮かび、白金の髪にも古い意匠を持つ髪飾りが現れる。


(知らない。)


(こんな服を着た記憶などない。)


それなのに、肌へ馴染む感触も、肩から流れ落ちる布の重さも、髪に触れる装飾の僅かな冷たさも、あまりにも自然だった。


まるで、ずっと昔から自分のものだったかのように

フェイはハープを奏でながら、胸の奥に込み上げてくる説明のつかない懐かしさに息を詰めた。


視界の端で、ルシウスが言葉を失って自分を見つめている。

カシアンもいつもの冷静な表情を僅かに崩し、ロスカはその場で静かに頭を垂れていた。


ロキだけは何も言わなかった。

いつもなら面白そうに何かを口にするはずなのに、今はただ、ひどく懐かしいものを見るような目でフェイを見つめている。


さらに演奏を続ける。




(ああそうだ。私は……私の本当の名は……)




やがて、美しく蘇った神殿の景色がゆっくりと滲み始めた。

目の前にあるはずの柱も、噴水も、ルシウスたちの姿さえも淡い光の向こうへ薄れていく。

代わりに、知らないはずの景色が重なった。

私は一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。


けれど、不思議と怖くはなかった。

むしろ、胸の奥から込み上げてきたのは、帰ってきた時のような安堵だった。

気が付けば、目の前には現在の灰色の世界とはまるで違う景色が広がっていた。


空はどこまでも青く澄み渡り、雲の上には巨大な神殿がいくつもそびえている。庭園には見たこともない花々が色鮮やかに咲き乱れ、遥か彼方には、天を覆い尽くすほど巨大な樹が枝を広げていた。


空を舞う、背に翼を持つ者たち。

遠くを歩く、山のように巨大な者たち。

人とも獣ともつかない、美しい生き物たち。

誰もが当たり前のようにそこにいて、笑い、話し、穏やかな時間を過ごしている。


知らない場所のはずだったが、どこかひどく懐かしい。

しかも私は、どこへ続くのかを知っていた。


あの角を曲がれば庭園がある。

あの階段を上れば大広間へ出る。

あちらの回廊は午後になると陽がよく差し込む。


そんな記憶が、考えるより先に次々と胸の中へ浮かんでくる。


そうだ。

これは、私の記憶だ。


自分が、ここにいる。

自分の足でこの道を歩き、自分の目でこの景色を見ている。

その感覚は、あまりにも鮮明だった。



『いーちゃん!』



突然、背後から聞き慣れた声がして、私は振り返った。


視界の端から、ロキがこちらへ駆けてくる。

今とほとんど変わらない姿だった。悪戯が成功した子どものように目を輝かせ、楽しそうな笑顔を浮かべている。



『いーちゃん!さっきのオーディンの顔見た?僕のイタズラで、すっごい顔してたよ!』



その姿を見た途端、自然に言葉が出た。



『またやったの?』



自分の声なのに、どこか遠い。

けれど、その言葉を口にした感覚も、ロキを見て呆れた気持ちも、すべて自分自身のものだった。



『だって、すっごく面白かったんだもん』


『そんなイタズラばっかりしてると、いつかオーディン様に何されるか分からないよ!』



オーディン様。

その名を口にした瞬間、現在のフェイの意識のどこかが小さく揺れた。

かつて神々の頂点に立ち、そしてルシウス自身の手によって倒された最高神。

それなのに、この記憶の中の自分は、その名を何の恐れもなく知っている。

それどころか、ごく自然に敬意を込めて「様」と呼んでいた。

ロキはそんな私の心配などまるで気にせず、お腹を抱えてケラケラと笑っている。


その笑い声を聞いていると、また胸の奥が温かくなる。

懐かしい。


その感覚だけは、もう否定できなかった。

ロキとこんなふうに話したことがある。

何度も悪戯を叱って、それでも最後には一緒に笑っていた。

それは、誰かから聞かされた出来事ではない。

そう、全部、私の中にある。




現在のフェイはハープを奏で続けながら、流れ込んでくる記憶の中で、自分自身が遠い昔の神界を歩いていたという事実を、少しずつ受け入れ始めていた。


そして同時に、その記憶をルシウスたちも見ていることが、不思議と分かった。

ほんの一瞬だけ、現在の景色が記憶の向こうに透けて見える。



ルシウスは、微動だにせずフェイを見つめていた。

いつもの冷静な表情はほとんど変わらない。

それでも、紫水晶の瞳だけが僅かに揺れている。


フェイには、彼が何を考えているのかまでは分からなかった。

ただ、自分と同じものを見ている。


神々がまだ存在していた時代。

自分がそこにいたという記憶を。

そして、今の自分がまだ知らない「自分」を。


フェイは再び記憶の中へと引き込まれていった。




目の前では、ロキが相変わらず楽しそうに笑っている。

その頃の自分もまた、何の疑いもなく彼と笑っていた。


この先に何が起こるのかも知らずに。


神々が滅びることも。

世界が今のような姿になることも。


そして、自分の大切な人たちを滅ぼすことになる一人の人間と、いつか出会うことも。


この時の私は、まだ何一つ知らなかった。

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