第69段階:神代の旋律
古き眷属が神代の術式によって示した座標を辿り、ルシウスとカシアンは崩壊寸前の荒廃した神殿へと転移した。
舞い上がる埃と砂塵の中、ルシウスは巨大な白狼でも、崩れかけた柱にもたれかかる見知らぬ青年でもなく、その部屋の中央に立つ小さな背中を誰よりも早く見つけ出した。
「フェイ!」
普段、どれほど凄惨な戦場にあっても決して取り乱すことのないルシウスが、この時ばかりは珍しく感情を乗せた強い声でその名を呼んだ。
ハープの前に立っていたフェイが、弾かれたように振り返る。
「ルシ……」
次の瞬間、ルシウスは空間を蹴るようにしてフェイの元まで歩み寄り、その華奢な身体を腕の中へと強く抱き締めた。
叱責の言葉よりも先に、ただフェイを失わなかったことへの安堵の抱擁が訪れる。
フェイが魔導宮の厳重な結界の内側から突如として消え去って以降、ルシウスは彼女の魔力も気配も一切追跡できず、最悪の場合、生死すら確認できないという状況に置かれていた。
それゆえに、実際にフェイの温かな体温を腕の中で確認し、彼女が確かに生きてそこにいるという事実を感じ取って、初めて張り詰めていた神経が僅かに緩んだのだ。
フェイは、自分をきつく抱き締めるルシウスの黒い服を小さく掴み返した。
「ルシ、ごめんなさい。でも……知りたくて」
フェイは縋るように、消え入りそうな声で謝罪した。
「自分が誰だったのか。この世界に昔何があって、どうして私だけがあの景色を懐かしいって思うのか。何も知らないままなのが、どうしても嫌だったの」
ルシウスはすぐには答えなかった。
フェイをもう一度だけ強く抱き締めてから、ゆっくりと身体を離し、彼女の顔色や手足に怪我がないことを入念に確認する。
ルシウスは声を荒らげてフェイを責め立てることはしなかった。
フェイがただ誘拐されたのではなく、自分自身の意思で、危険を承知の上で「真実を知ろうとした」ことを、その言葉から理解したからだ。
もちろん、自分に何も言わず勝手に姿を消したことへの怒りと、二度と彼女を見つけられないかもしれないという恐怖は確かに残っている。
しかし、それを今フェイへぶつけるつもりはなかった。この特異な状況を把握することが先だった。
フェイの無事を確認したルシウスは、そこで初めて、フェイの背後で静かに彼らを見つめていた巨大な白狼――ロスカへ氷のような視線を向けた。
「……なぜ私を呼び出した。貴様は何者だ」
魔導王としての底冷えするような低い声。
ロスカは、神殺しの魔導王の威圧的な視線を真正面から受け止めた。
「我は、古き時代より主に仕えてきた眷属。
貴様ら人間が神々の支配下にあった頃より、この御方の傍にいた」
その言葉に、ルシウスの紫水晶の瞳が僅かに細められる。ロスカは威厳を持った声で続けた。
「我が知りたいのはただ一つ。本来の主を知った時、貴様がどうするのか。それを見届けたかった」
「……どういうことだ」
「直に分かる」
ロスカはそれ以上答えることなく、部屋の中央に置かれた古いハープへ視線を向けた。
その直後、ルシウスの視線が部屋のさらに奥へと動く。
崩れかけた大理石の柱に寄りかかり、まるで他人の劇でも観賞するように、一連のやり取りを眺めている一人の青年。
魔導宮へ幾度となく侵入し、最強の結界をすり抜けてフェイへ何度も接触した、あの正体不明の存在だった。
ルシウスが纏う空気が、一瞬にして絶対的な殺意へと変わった。
彼がフェイを自分の背後へ庇おうと動いたその時、フェイ自身がルシウスの腕を引いて止めた。
「待って、ルシ」
「フェイ、離れなさい」
「この人に連れてこられたのは本当。でも、最後に手を取ったのは私なの」
フェイの言葉は、ルシウスにとって到底納得できるものではなかった。
しかし、その殺意を向けられた青年は、いつものような無邪気な笑みを浮かべてルシウスを見つめ返した。
「怒らないでよ。僕はただ、彼女の願いを叶えただけだ」
青年は軽く手を上げ、初めてその名を自ら口にした。
「ロキだよ」
その名を聞き、ルシウスと背後で控えていたカシアンの表情が同時に硬くなる。
ロキ。
神代の文献にも僅かに名が残る、「悪神」と呼ばれた存在。
彼らが知る神話の中で、数々の騒動を引き起こし、神々を欺いたとされる名だった。
ただし、ルシウスたちは、ロキがラグナロクが起こる以前に冥界ニブルヘイムへと幽閉されていたことまでは知らない。
ロキは、警戒を露わにするルシウスを非常に興味深そうに観察していた。
ロキ自身も、神界がなぜあのような結末を迎えたのか、ラグナロクの真相を知らない。
自分が冥界へ落とされた後、神界で一体何が起こったのか。
なぜ世界を統べる神々は悉く滅びたのか。
そして何より、神々によって作られたはずの脆弱な「人間」であるルシウスが、なぜ創造主である神々を凌駕し、最高神オーディンすら殺すほどの存在になったのか。
それは、ロキ自身も知りたい事実だった。
だからこそ今回は余計な茶々を入れることもなく、静かに見届ける側へ回っていた。
ロスカがフェイへ静かに告げる。
「主。お奏でください」
フェイはルシウスの腕からゆっくりと離れ、荒廃した神殿の中で唯一、埃一つなく美しく保たれているハープの前へ歩み寄った。
用意された古い石の椅子へ腰を下ろしたものの、戸惑うように振り返る。
「でも私……こんな大きいハープ、弾いたことないよ」
ロスカは慈しむような声で答えた。
「御身は、お忘れになっているだけです」
フェイは深呼吸をし、恐る恐る弦へと細い指先を置いた。
弾き方を考えるより先に、フェイの指が自然に動いた。
ポロロン、と。
最初の一音が、崩れかけた神殿に響き渡る。
それは、誰も聞いたことのない、しかしどこか魂の奥底へ直接触れるような、言葉にならないほど美しい旋律だった。
二音、三音と続き、やがてフェイの両手は、まるで何かに導かれるように迷いなく弦の上を走り始めた。本人の意識は「弾き方を知らない」はずなのに、身体だけがその音楽を完全に記憶していた。
そして、異変はフェイ自身だけに起きたのではなかった。
ハープの音色が神殿の外へと広がっていくにつれ、長い年月をかけて死に絶えていた周囲の大地が、静かに息を吹き返し始めたのだ。
最初に変化したのは、神殿の外に残されていた一本の枯れ木だった。
灰色に乾ききっていた枝の先から、小さな緑色の芽が顔を出す。芽は瞬く間に葉を広げ、そこから伝播するように、隣の木、そのまた隣の木へと鮮やかな緑が戻っていった。
やがて、枯死していたはずの森全体が目覚め始める。
灰色だった枝々を瑞々しい葉が覆い、地面からは柔らかな草が芽吹き、色とりどりの花々が次々と咲き始めた。
神殿を取り囲んでいた死の森は、フェイの奏でる旋律が届く範囲から、まるで時間を巻き戻すようにかつての生命に満ちた姿を取り戻していく。
長く枯れ果てていた噴水の底からは、最初はほんの一滴だった水が湧き出した。
やがてそれは細い流れとなり、瞬く間に水量を増していく。
澄み切った水が噴水を満たし、中央の彫像から勢いよく空へ吹き上がると、何百年もの間失われていた清らかな水音が、ハープの旋律に重なるように神殿へ響き始めた。
神殿そのものにも変化が起こる。
亀裂だらけだった大理石の柱が、音色に呼応するように淡い光を帯びた。
砕けて地面に転がっていた石材が静かに浮き上がり、本来あるべき場所へと戻っていく。
崩落していた天井が繋がり、ひび割れた壁が修復され、色褪せていたフレスコ画には鮮やかな色彩が蘇った。
埃と瓦礫に覆われていた古代神殿が、フェイの奏でる音楽によって、失われた神代の姿を少しずつ取り戻していくのだった。




