第68段階:忘れられた神殿
自分が何者だったのか、失われた過去を知りたい。
神々が滅びた後も、なぜこの世界が数百年もの間、完全に死に絶えることなく存続できたのかを知りたい。
そして、今まさに崩れ落ちようとしているこの世界を、本当は誰が支え続けているのかを、この目で確かめたい。
フェイは、あの正体不明の青年に流されて魔導宮を出たわけではない。
自分自身の意思で彼の差し出した手を取り、安全な場所から一歩踏み出したのだ。
そして今、フェイはロキの先導ではなく、千年ぶりに再会した巨大な白狼ロスカの案内に従い、静まり返った枯れた森の奥を歩いていた。
やがて木々が途切れ、開けた場所に出る。
そこには、巨大な古代の神殿が存在していた。
「主。おかえりなさいませ」
前を歩いていたロスカが足を止め、静かに振り返った。
「ここが昔、我々がともに暮らしておりました神殿です」
しかし、フェイが目にしたその場所は、「神殿」と呼ぶにはあまりにも荒れ果てていた。
かつては壮麗で美しかったであろう巨大な大理石の建造物は、今にも崩れ落ちそうなほど傷んでいる。
天を突く石柱には無数の亀裂が走り、一部は完全に倒壊して瓦礫の山となっていた。
美しい水を湛え、水音を響かせていたはずの噴水はとうに枯れ、敷き詰められた石畳は砕け散り、生命力の強い雑草すらほとんど生えていない。
神殿を囲むように広がっていたであろう森もほぼ枯死しており、巨大な木々は葉を失い、灰色の幹だけを墓標のように残していた。
それなのに、フェイはこの荒廃しきった光景を初めて見たはずなのに、なぜか「帰ってきた」という奇妙な感覚に襲われていた。
頭の中に、この場所の記憶はない。
けれど、崩れた石柱の位置も、枯れた噴水の形も、どこか見覚えがある気がする。
自分でも理由が分からないまま、フェイは胸の奥がきゅっと締め付けられるような痛みを覚えた。
「へぇ。ここまで廃れるんだね」
フェイの少し後ろを歩いていたロキが、崩壊した神殿を興味深そうに見回しながら、まったく悪気のない明るい声で言った。
ロスカが即座に牙を剥き、黄金の瞳でロキを睨みつける。
「黙れ」
「はいはい」
ロキは怯える様子もなく、軽く肩をすくめて舌を出した。
どうやら二人の関係は、遥か昔からほとんど変わっていないらしい。
ロスカはロキを「悪神」として強く警戒し、一切信用していない。
一方のロキは、ロスカからどれほど露骨に嫌われてもまったく気にしておらず、むしろその反応を面白がっているようだった。
「主、こちらへ」
ロスカに導かれ、フェイは崩れかけた神殿の内部へと足を踏み入れた。
天井の一部は崩落し、薄暗い廊下へ冷たい外の光が差し込んでいる。
瓦礫を避けながら進んでいると、やがて二股に分かれた回廊へ差しかかった。
その瞬間、フェイは考えるより先に片方へ足を向けた。
「……次は、こっち?」
自分でもなぜそう思ったのか分からない。
前を歩いていたロスカの耳が、ピクリと反応した。
ロスカは振り返り、フェイが示した方向を見つめて、ごく僅かに目を細める。
そこは確かに、かつて主が好んで過ごしていた場所へと続く道だった。
しかし、ロスカは無理に記憶を掘り起こさせようとはしなかった。
「はい。その通りでございます」
それだけ答え、再び静かに先を歩いていく。
やがて辿り着いたのは、神殿の最も奥に位置する広い部屋だった。
高い天井には色褪せたフレスコ画の跡が残り、ひび割れた壁には枯れた蔦が這っている。
その部屋の中央に、一つの楽器が置かれていた。
大きなハープだった。
不思議なことに、神殿のほとんどが朽ち果てているというのに、そのハープだけはまるで昨日まで誰かが手入れをしていたかのように美しく保たれていた。
弦には錆一つなく、木枠には埃すら積もっていない。
何百年、何千年という時間の中で、この楽器だけが大切に守られ続けてきたことが一目で分かった。
「……ハープ」
フェイはそこで足を止め、吸い寄せられるようにその楽器を見つめた。
魔導宮へ来て一年が経った記念の日。
ルシウスや皆が、自分のために用意してくれた贈り物もハープだった。
あの時も、初めて見るはずなのに不思議なくらい心を惹かれた。
今、目の前にある古びたハープを見つめていると、あの時胸の奥に生まれた感覚とよく似たものが、再び静かに込み上げてくる。
ロスカが、フェイの横顔を見つめながら静かに口を開いた。
「貴方様が、いつも私たちに美しい音色を奏でてくださったものです」
その言葉に、フェイはハープへゆっくりと近付いた。
ロスカだけではない。
かつてこの場所には、自分の音楽を聞いていた「誰か」が、もっとたくさんいたのかもしれない。
そんな感覚だけが、理由もなく胸の奥へ浮かんでくる。
フェイは震える指先を弦へと伸ばした。
「……弾いても、いいの?」
その問いに、ロスカの黄金の瞳が一瞬だけ嬉しそうに揺らいだ。
千年以上もの間、聞くことのできなかった主の音色。
もう一度、それを耳にすることができるかもしれない。
しかし、フェイの細い指先が埃を被った弦へ触れる直前、ロスカは静かに口を開いた。
「少し、お待ちください」
フェイは不思議そうに指を止め、ロスカを振り返った。
ロスカは少しの間だけ何かを考えるように沈黙し、やがて決意を固めたように告げた。
「彼を呼びましょう。魔導王を」
その名前に、フェイは驚いて目を丸くした。
背後の柱にもたれかかっていたロキも、意外そうに瞬きをする。
「魔導王は呼ぶ必要ないんじゃない? 彼、今頃すごく怒ってると思うけど」
「いや。ここに呼ぶ」
ロスカはロキの軽口を一蹴し、再びフェイへ視線を戻した。
ロスカは、魔導王ルシウスという男を完全に信用しているわけではない。
かつて神々を殺した存在であり、神代を知るロスカから見れば、本来なら決して警戒を解いていい相手ではなかった。
それでも、長い間遠くからフェイを見守り続けてきたロスカは知っている。
今のフェイが、ルシウスを心から信頼していることを。
彼の傍で笑い、その場所を自らの帰る場所としていることを。
そして、神々が消え去った後のこの世界を、誰にも知られることなく数百年もの間支え続けてきたのが、その魔導王であることも。
だからこそ、フェイが自分自身の過去と、この世界に隠された真実を知ろうとしているこの場から、ルシウスだけを排除するつもりはなかった。
「私は、あの男の覚悟が見たい」
ロスカは低く告げた。
「……覚悟?」
フェイが問い返す。
しかし、ロスカはそれ以上説明しようとはしなかった。
なぜ、自分がハープを奏でる前にルシウスを呼ぶ必要があるのか。
このハープを弾けば、何が起きるのか。
そして、ロスカがルシウスに求めている「覚悟」とは何なのか。
フェイにはまだ、何一つ分からなかった。
ロキも、この一連の流れを止めようとはしなかった。
ロスカがルシウスを呼び寄せようとしていることを知っても、ただ面白そうに目を細める。
「へぇ。あいつも呼ぶんだ」
「……いいね」
「僕も聞きたいことがあるし」
フェイが首をかしげて問う。
「ルシに?何を?」
「どうして、人間が神より強くなったのか」
それだけ言うと、また柱へ背中を預けた。
ロスカは古い魔力を静かに練り上げ、遠く離れたルシウスへ呼びかける準備を始める。
フェイは再び、目の前にある古びたハープを見つめた。
何百年、あるいは千年以上もの間、誰の手にも触れられることなく忘れ去られていた弦。
まだ指先を触れてもいないというのに、ふと、そのうちの一本がほんの僅かに震えた。
微かな音が、静まり返った神殿へ響く。
フェイはその音を聞いた途端、無意識に胸元を押さえた。
理由は分からない。
それでも、この音を自分は確かに知っている。
同じ頃、魔導宮。
結界管理室に立つルシウスは、フェイの行方を探し続けていた。
魔力も、気配も、彼が施した何重もの追跡術式も、一切の反応を示さない。
あの得体の知れない青年がどのような方法を用いたのか、フェイの居場所へ繋がる手がかりは完全に途絶えていた。
カシアンも傍らで膨大な術式を展開し、あらゆる可能性を洗い出している。
それでも、見つからない。
ルシウスは魔導盤を睨みつけたまま、微動だにしなかった。
怒りよりも強い焦燥が、静かに胸の奥を蝕んでいる。
その時だった。
現代の洗練された魔法陣とはまったく異なる、極めて原初的で強大な古い術式が、何重もの結界を越えてルシウスの意識へ直接触れた。
『魔導王ルシウス』
ルシウスが鋭く顔を上げる。
その低い声には、確かな聞き覚えがあった。
『我が主は、ここにおられる』
その言葉を理解した瞬間、ルシウスの紫水晶の瞳が僅かに揺れた。
フェイは生きている。
少なくとも今、この声の主とともにいる。
その事実だけで、張り詰め続けていたものがほんの僅かに緩んだ。
しかし、ロスカは安堵する時間を与えなかった。
『来られよ』
古い術式の向こうから、重々しい声が響く。
そして少しの間を置き、ロスカは静かに告げた。
『貴様にも、見届けてもらう』




