第67段階:古き眷属
フェイが、差し出された手と床へ座り込んだ青年魔導師を交互に見ながら、どうするべきか迷っていた、その時だった。
部屋の外から、地響きのような恐ろしい唸り声が聞こえた。
「ガルルルルル……ッ!!」
青年が僅かに視線を動かす。
直後、分厚い石壁を粉砕する勢いで巨大な白狼が部屋の中へ躍り込んできた。
雪のように純白の毛並み。
黄金に輝く、古い神獣を思わせる鋭い瞳。
白狼はフェイを守るように前へ立ち、青年との間へ割って入る。
「ロキ!」
牙を剥き、全身から凄まじい殺気を放ちながら怒鳴った。
「貴様、我が主に何をしている!」
「……主?」
フェイは目を丸くして、突然現れた白狼を見つめた。
しかし青年はまったく動じることなく、むしろ懐かしい知人と再会したように嬉しそうに笑う。
「久しぶり」
白狼は低く唸り続けている。
青年はそんな白狼を眺めながら、小首を傾げた。
「いーちゃんと、よく一緒にいたよね。……名前、なんて言ったかな。君」
「いーちゃん」という聞き覚えのない呼び名に、フェイは戸惑った。
だが、目の前に立つ雪のように真っ白な白狼を見つめた瞬間、フェイの脳裏へ強烈な記憶の断片が激流のように流れ込んできた。
現在ではない。
遥か昔。まだ世界が瑞々しい緑と生命に満ちていた時代。
傷つき、膨らんだ腹部を守るようにして横たわる、一頭の白狼が見える。
その傍らにしゃがみ込んでいるのは、自分だった。
『もう大丈夫』
自分の声が聞こえる。
白狼の身体へ手を添え、優しく毛並みを撫でている。
『おなかの赤ちゃんたちも、大丈夫だからね』
自分の指先を傷つけ、滲んだ血を白狼の口元へ与える。
『私の血を、君にあげるから』
血が白狼の身体へ吸い込まれていくと同時に、傷ついた身体へ強い生命の力が満ちていく。
やがて自分の手が、白狼の真っ白な毛並みを優しく撫でていた。
『そうだねぇ。きみは雪みたいに真っ白だから……』
そこで、記憶は途切れた。
フェイは目の前の巨大な白狼を、呆然と見つめていた。
なぜその名前を知っているのか、自分でも分からない。
それでも、ごく自然に唇が動いた。
「……ロスカ」
白狼の動きが、ぴたりと止まった。
黄金の瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。
千年以上待ち続けた主が、自分の名を呼んだ。
先ほどまで青年へ向けていた激しい怒りが一瞬で消え、ロスカの耳が僅かに伏せられる。
「主……」
低く力強かった声が、微かに震えた。
「ご記憶が……戻られたのですか?」
フェイは困惑したまま、ゆっくりと首を横に振った。
「……分からない。でも、あなたを見たら……急に」
ロスカは何も言わず、ただフェイを見つめた。
完全に記憶が戻ったわけではない。
それでも、千年ぶりに主の口から自分の名を聞いた。
ロスカはゆっくりと頭を下げ、その黄金の瞳には隠しきれない感情が滲んでいた。
そんな二人の様子を眺めていた青年が、横から軽く口を挟む。
「これから見せに行くんだよ」
ロスカは即座に顔を上げ、青年を鋭く睨みつけた。
「黙れ、悪神」
そしてフェイへ向き直ると、深く頭を下げる。
「主。こやつは信用できませぬ」
「ひどいなぁ」
青年が不満そうに口を尖らせるが、ロスカは完全に無視した。
「ご記憶をお求めなのであれば、わたくしがご案内いたしましょう」
フェイは完全に困惑していた。
目の前には、自分の失われた過去を知っているらしい青年がいる。
そして、自分を「主」と呼び、なぜか名前だけは思い出すことのできた巨大な白狼がいる。
どちらも、自分が知らない自分を知っている。
それなのに、二人の関係はどう見ても最悪だった。
フェイは二人を交互に見比べた後、小さく口を開いた。
「……ちょっと待って」
青年とロスカが同時にフェイを見る。
「二人とも、私のこと知ってるの?」
「当然でございます」
ロスカが答える。
「うん」
青年も何の迷いもなく頷いた。
フェイはますます混乱した。
そして、これまで何度尋ねても答えてもらえなかった、一番聞きたかった質問を青年へ向ける。
「じゃあ……あなたは誰なの?」
青年は少しだけ目を細めた。
これまで一度も、自分から名乗ったことはない。
隣ではロスカが露骨に嫌そうな顔をしている。
青年はいつもの無邪気な笑顔を浮かべ、まるでようやくこの質問を待っていたかのように楽しそうに答えた。
「僕?」
ほんの少し笑ってから、自分の名を告げる。
「ロキ」




