第66段階:代償
人里から遠く離れた、人間がめったに足を踏み入れることのない万年雪に覆われた山奥。
その深い洞窟の中で、長い眠りについていた巨大な白狼が、突然ゆっくりと目を開いた。
雪のように真っ白で美しい毛並み。
魔導宮にいる黒猫ノアとは比較にならないほど、途方もなく古く、濃密な魔力を宿した巨大な身体。
その名はロスカ。
千年以上も昔、世界が緑に包まれていた時代から、とある「主」に仕え続けてきた古き眷属である。
眠りから覚めたロスカは、不意に顔を上げ、西の空を睨みつけた。
ずっと遠くから感じ続けていた微かな「主」の気配が、不自然な形で完全に消え去ったのだ。
「……主の匂いが、あの男のもとから消えた……」
ロスカは、主がかつて神々を葬った魔導王ルシウスのもとにいることを以前から知っていた。
あの恐ろしいほどの力を持つ男の傍であれば、少なくとも外敵から主を守り切れるだろうと判断し、これまで直接姿を現すことなく、遠くから静かに見守り続けてきた。
しかし、その気配が突如として完全に消失した。
ロスカはゆっくりと四つ足で立ち上がった。
長い眠りから目覚めた巨大な身体から凄まじい魔力が溢れ出し、その圧力だけで洞窟の壁が低く震える。
鼻腔を澄ませ、消えかけた主の残り香を探る。
その微かな匂いの中に、ロスカはよく知っている不快な気配が混ざっていることに気付いた。
黄金の瞳が鋭く細められ、白い牙が剥き出しになる。
「……悪神めが。何を企んでいる」
地を這うような低い唸り声を残し、ロスカは大地を蹴った。
純白の巨体は目にも留まらぬ速さで雪山を駆け下り、主の残り香を追って遠くへと消えていった。
一方、正体不明の青年とフェイが辿り着いたのは、どこかの古い砦を思わせる薄暗い石造りの一室だった。
そこには、世界連合側の青年魔導師が一人、落ち着かない様子で待っていた。
空間の揺らぎから現れたフェイの姿を見た瞬間、青年魔導師は信じられないものを見るように大きく目を見開いた。
やがて、その顔に抑えきれない狂喜が広がっていく。
「本当に……連れてきたのか」
突然見知らぬ場所へ連れてこられたフェイは、状況が分からないまま不安そうに隣の青年を見上げた。
しかし、青年魔導師はフェイ自身のことよりも、「自分が魔導王ルシウスを出し抜いた」という事実に興奮しきっていた。
長年ルシウスへ抱き続けてきた強烈な劣等感と対抗心が、歓喜となって一気に噴き出す。
「これで、魔導王を……あのルシウスを出し抜ける!」
青年魔導師は恍惚とした表情で笑った。
「私の長年の悲願が、やっと成就する。世界を救うのは魔導王ではない。この私だ!」
その歪んだ野心を聞き、フェイの胸に初めて嫌な予感が広がった。
自分は、この青年魔導師へ引き渡すために魔導宮から連れ出されたのではないか。
「……どういうこと?」
フェイは不安そうに、隣に立つ青年を見た。
しかし青年は何も悪びれることなく、いつもの子どものような柔らかな笑顔を浮かべている。
青年魔導師が、興奮冷めやらぬ様子で彼へ言った。
「約束通りだ。これで契約は――」
「うん」
青年が、その言葉を遮った。
「契約は、成立したよ」
ひどく楽しそうに微笑んでいる。
青年魔導師と彼が結んだ契約は、「フェイを青年魔導師のもとへ連れてくること」。
ただ、それだけだった。
フェイを青年魔導師の所有物として永遠に引き渡すとも、その後の世界救済へ協力するとも決められてはいない。
そして今、フェイは確かに青年魔導師の目の前にいる。
契約条件は、すでに満たされていた。
「さて」
青年が軽く指先を動かす。
すると、青年魔導師の身体に刻まれていた契約の術式が淡く光り始めた。
この契約で青年魔導師が差し出した対価は、自らの「記憶」だった。
封印されていた青年を解放し、その力を借りるために、自分自身の人生そのものを担保として差し出していたのである。
青年魔導師は、自分が目的を達成して世界を救いさえすれば、その程度の代償などどうとでもなると考えていた。
だが、契約は履行された。
ならば、対価も支払われなければならない。
「……待て」
青年魔導師の顔から、初めて笑みが消えた。
自分が何をしようとしていたのか。
なぜルシウスを憎んでいたのか。
なぜ魔導宮を襲撃したのか。
一つ、また一つと、記憶が砂のように崩れていく。
自分が所属していた国。
研究院で過ごした日々。家族。友人。長い年月をかけて身につけた魔法の知識。
そして、ルシウスを超えることだけを願い続けた人生そのもの。
青年魔導師は両手で頭を押さえ、震えながらその場に膝をついた。
「待て……私は……私は何を……」
最後に残っていた、自分という存在を支える最も基本的な記憶まで抜け落ちていく。
青年魔導師は虚ろな目で周囲を見回した。
「私は……」
自分の名前すら、もう出てこない。
「……誰だ?」
「……えっ」
フェイは目の前で起きている事態が理解できず、息を呑んだ。
青年魔導師は死んではいない。意識もある。
ただ、自分が誰なのかも、ここがどこなのかも分からないまま、呆然と床へ座り込んでいる。
青年は彼を一瞥しただけだった。
殺したわけではない。
契約を破ったわけでもない。
ただ、最初に取り決めた対価を、約束通り受け取っただけだった。
フェイが驚いて青年を見ると、彼はひどく楽しそうに笑っていた。
「僕はね」
少し悪戯っぽく片目を瞑る。
「イタズラが何よりも好きなんだ」
その笑顔を見て、フェイは初めてはっきりと理解した。
この人は、自分には優しい。
でも、ただ優しいだけの存在ではない。
人間が考える善悪とは、まったく違う場所に立っている。
青年は何事もなかったかのように、再びフェイへ手を差し出した。
「さぁ行こう。君の見たいものを見せてあげる」




