第65段階:差し出された手
あの日、柔らかな風に乗って届いた青年の干渉から数日が経過していた。
フェイは、あの青年が見せたほんの数秒の世界の残像を、何度も何度も頭の中で反芻していた。
果てしなく広がる瑞々しい巨大な森。
天を突くような建造物。
空を舞う未知の生物たち。
そして、様々な種族が当たり前のように息づいていた風景。
現在のような死に絶えた灰色の世界ではなく、命の力に溢れていたその光景に、なぜ自分はあれほどまでの「懐かしさ」を覚えたのか。
一方、ルシウスは青年への警戒をかつてないほどにまで引き上げていた。
フェイの居場所を常に把握できるよう微細な感知魔法を幾重にも重ね、彼女の精神領域を覆う防御結界も、カシアンと共に何度も再構築した。
しかし、前回と同様、青年の干渉方法は既存の魔導体系の理を完全に外れており、防ぐ手立てが見つからない。
『フェイ。何を見せられても、あれについて行くな』
ルシウスは、強い焦燥を隠しきれない声でフェイにそう言い含めた。
フェイも、真剣な瞳で小さく『うん』と答えた。
実際、この時点でのフェイ自身も、あの正体不明の青年に従ってどこかへ行くつもりなど微塵もなかった。
その日の午後。
フェイは、中庭にそびえる生命の樹の根元に座り、分厚い植物図鑑を広げていた。
少し離れた日陰では、黒猫のノアが香箱を組んで静かに目を閉じている。
ふわりと、心地よい風が吹き抜けた。
フェイが本から顔を上げると、少し離れた場所に、あの青年が立っていた。
これまでのように、夢の中や風を介した声だけではない。
彼は今回、その姿を隠すことなく、いつものような無邪気で柔らかな笑顔を浮かべてこちらを見ていた。
「……また来たの?」
フェイが立ち上がり、少しだけ警戒を含んだ声で尋ねる。
「うん」
青年は軽く頷いた。
「ルシに怒られるよ。ここはダメって言われてる場所だもん」
フェイが咎めるように言うと、青年はひどく楽しそうに笑った。
「知ってる」
しかし、今回の青年からは、ただ悪戯をしに来ただけではない、これまでとは少し違う静かな雰囲気が漂っていた。
青年はゆっくりとフェイの方へ歩み寄り、彼女から少し距離を残したところで立ち止まった。
「前に見せたもの、まだ気になる?」
フェイは嘘をつけず、素直に頷いた。
「うん。すごく、懐かしかったの。でも、私、あんなところ知らない。
行ったこともないし、見たこともないはずなのに……どうしてなの?」
青年はすぐには答えなかった。
ただ静かな瞳で、フェイの海のような青い瞳をしばらく見つめた後、ゆっくりと右手を差し出した。
「全部、知りたい?」
フェイは、目の前に差し出されたその手を見つめた。
細く白い青年の手。
その手を取れば、胸を締め付けるような「懐かしさ」の正体を知ることができるのかもしれない。
しかし、その先に何が待っているのかは、まったく分からない。
『何を見せられても、あれについて行くな』
ルシウスの真剣な声が脳裏に蘇る。
フェイは迷った。
ぎゅっとスカートの裾を握りしめ、しばらく青年の手を見つめた後、ゆっくりと首を横に振った。
「……行かない」
青年は、その拒絶に怒りもしなかった。
残念そうに眉を下げることも、苛立った様子を見せることもなく、ただ穏やかに微笑んだ。
「そっか」
それだけ言うと、青年はあっさりと手を下ろした。
フェイの意思を、最初から尊重するつもりだったかのように。
少しの沈黙が落ちた。
青年はフェイの後ろにそびえる巨大な生命の樹を見上げると、これまで見せたことのないような、少しだけ真剣な声で語りかけた。
「でもね。知っておいた方がいいよ」
「……何を?」
フェイが問い返す。
青年は静かに告げた。
「神のいないこの世界が、どうして今も存続できているのか」
フェイの表情が、はっと変わった。
青年はフェイを見ず、巨大な生命の樹へ視線を向けたまま言葉を続ける。
「神々がいなくなって、もう何百年も経っている。命を循環させる仕組みは、とうの昔に壊れているのに、この世界はすぐには滅びなかった」
少しだけ首を傾ける。
「……おかしいと思わない?」
フェイは答えられなかった。
言われてみれば、その通りだった。
フェイが目覚めた灰色の森は死に絶えていたが、それでも世界そのものは完全には崩壊していない。
青年はさらに続けた。
「今の世界は、あと五十年ほどしか持たないと言われている」
そして初めて、青年の声音から普段の軽やかさが消えた。
「じゃあ、その前の何百年を、たった一人で支えてきたのは誰だと思う?」
その言葉に、フェイの胸が僅かにざわついた。
魔導宮の守護者たち。
そして、その中心にいる一人の男。
無口で、不器用で、それでもいつも自分を守ってくれているルシウスの姿が、なぜか真っ先に脳裏を過った。
「この世界を維持しているのは、誰なのか」
青年はようやく視線をフェイへ戻し、はっきりと告げた。
「きみは、知っておくべきだ」
「知らないと、助けられる術もわからない」
フェイは息を呑み、青年を見つめ返した。
最初に差し出された手を、フェイは拒んだ。
それでも青年は無理強いしなかった。
「僕を信じて」とも言わなければ、「僕について来なければ後悔する」と脅すこともない。
これまでもずっとそうだった。
青年は断片だけを見せ、答えを与えず、最後に決めるのはいつもフェイ自身だった。
フェイは迷った。
もし行けば、ルシウスがどれほど怒り、どれほど心配するか分かっている。
エマも、カシアンも、ノアも心配するだろう。
この一年で、魔導宮はフェイにとって、もう単なる住む場所ではなくなっていた。
帰る場所だった。
大切な人たちがいる場所だった。
だからこそ、その大切な世界に何が起きているのかを何も知らず、ただ守られているだけでいいのだろうかという思いも、フェイの中に生まれていた。
自分は何者なのか。
この世界に何が起きているのか。
なぜ自分だけが、失われた美しい世界をこれほど懐かしいと思うのか。
そして。
世界を、たった一人で支えているという人物は誰なのか。
知らないままでいることが、今は少しだけ怖かった。
フェイは小さく息を吸い込んだ。
「……そこに行けば、分かるの?」
青年は静かに頷いた。
「うん」
それ以上は何も言わない。
ただ、もう一度だけ右手を差し出した。
今度は、「来て」とすら言わなかった。
フェイは差し出された手を見つめる。
ルシウスの顔が浮かぶ。
約束を破ることへの罪悪感が、胸を締め付けた。
それでも、フェイはゆっくりと右手を伸ばした。
今度は誰かに促されたからではない。
自分で考え、自分で決めた。
フェイは初めて、自らの意思で青年の手を取った。
その瞬間、青年の表情に、いつもの悪戯っぽい飄々とした笑みとは違う、本当に嬉しそうな感情が浮かんだ。
まるで、途方もなく長い時間待ち続けていた何かが、ようやく叶ったかのような。
「……行こうか」
青年がフェイの手を優しく握る。
乱暴に引っ張ることも、魔法で拘束することもない。
フェイ自身が一歩踏み出したことで、二人の周囲の空間が、水面に落ちた一滴の雫のように静かに波打ち始めた。
その時
少し離れた日陰で眠っていたノアが、弾かれたように立ち上がった。
黄金の瞳が限界まで見開かれる。
「フェイ様!!」
ノアが風を切って駆け出す。
しかし、既に二人の輪郭は揺らぎ始めていた。
同じ頃、執務室にいたルシウスも異変に気付いていた。
常に正確な位置を捉えていたはずのフェイの反応が、突然、完全に消えた。
前回のような一瞬の途切れではない。
何重にも重ねた感知術式の、そのすべてから。
フェイの存在だけが消失した。
ルシウスは椅子を蹴るように立ち上がり、即座に空間転移を発動した。
次の瞬間には生命の樹の根元へ現れていた。
だが。
一歩、遅かった。
春の風が穏やかに吹き抜ける中、そこにフェイの姿はなかった。
青年もいない。
ただ、二人が先ほどまで立っていた草が僅かに揺れているだけだった。
「……フェイ」
ルシウスの口から零れたのは、怒号ではなかった。
低く、掠れた声。
いつもならどれほど遠くにいようと感知できたフェイの存在が、今はどこにもない。
世界連合軍が攻めてきても、神に近い得体の知れない存在を前にしても、揺らぐことのなかった紫水晶の瞳に、この時初めて明確な動揺が浮かんだ。
ノアもまた、青年が消えた空間を睨みつけ、全身の毛を逆立てて低く唸っている。
しかし、ノアは見ていた。
フェイは力ずくで攫われたのではない。
迷いながらも、自分から青年の手を取った。
「……あいつ」
ノアが悔しそうに牙を覗かせる。
ルシウスは何も答えなかった。
ただ、フェイの痕跡が完全に途絶えた空間を、凍てつくような眼差しで見つめ続けていた。
場面転換。
どこか遠く離れた、薄暗い場所。
フェイがゆっくりと目を開けると、先ほどまで生命の樹の下にいたはずの景色は完全に消えていた。
周囲の空気はひどく冷たく、魔導宮のような温かさは微塵も感じられない。
そこにあるのは、古びた石壁と薄暗い灯りだけだった。
青年はフェイがしっかりと立ったことを確かめると、繋いでいた手をそっと離した。
「着いたよ」
フェイは不安そうに周囲を見回した。
「……ここは?」
青年はその問いには答えず、ただいつものように、どこか底知れない無邪気な笑みを浮かべていた。




